祝! 日本ジャーナリスト会議賞大賞と早稲田ジャーナリズム大賞の受賞!
沖縄王版『琉球新報』紙面批評−2004年9〜12月分


 9月1日付朝刊の社説は<激増したいじめ> <訴えるのは正しいこと>という見出しで、 県内の2003年度のいじめが前年比40.1%(87件)増えたことについて 論評している。

 この数字が氷山の一角に過ぎないと推測しながら、 増加の背景として<いじめられている当人の訴えで 発覚するケースが増え、中高校ではいじめ発見のきっかけの トップになっている>と指摘する。

 確かにそのような見方は妥当だと私も思う。

 ただ、最後の結びが<声を上げることはけっして弱く、臆病なことではない。 むしろ極めて正しい行為である。このことを学校現場でも家庭でもしっかり 教えることを求めたい>と安易に終わったのが惜しまれる。 こんなことは20年以上前から言われてきた“激励”でしかない。

 いじめといってもさまざまな形態があるのに、 声を上げることは正しいと大人が言うだけで、 いじめられている子供が告発できるだろうか。

 社説執筆者自身が、上記の数字を<氷山>と見ている節があり、 だとすると、氷山の全体がなぜ見えないかを考えるべきだった。 すなわち、声を上げられない子供がいることに思いを至らせるべきだった。と私が言っても、思いが至らない人は逆立ちしても至らないものではあるが。

 私は自分の子供たちにこのように言ってきた。

 大人の社会でもいじめや嫌がらせがある。会社の上司が部下に嫌がらせを したり、会社を辞めさせようとしたりすることがある。女性の場合、 男の上司によるセクハラ行為という“いじめ”もある。

 大人であってもその場で声を上げにくいのではないか。 声を出しても、相手の立場が強く大きい場合は何も解決できなかったりするのでは ないか。

 では大人はどう対処しているか。大人は労働組合や弁護士や場合によっては警察に相談する。労働組合がないときは自分たちで立ち上げて集団になって闘う。

 大人でさえ自分1人で相手と闘うことは滅多にしない。大人でさえいろんな人に相談して協力してもらって闘うのだ。集団になって立ち向かうことで、精神的な疲弊や孤立を免れうるという効果は大きい。

 大人がそうしているのだ。子供だってそうすべきなのである。つまり、1人で抱え込まず、必ず大人に相談する。その大人が具体的な対応をしない場合は(ことかれ主義の情けない大人は半分くらい存在すると私は見ている)、別の大人に相談する。

 いじめは子供だけで解決できるものではない。親や先生など大人の手を借りて解決するものだ。

 最後にこう念を押す。「万一キミがいじめられたらどんなことがあっても守ってやるから、すぐに親に言いなさい。もちろん、友達がいじめられているのを見た場合もすぐに親や大人に言いなさい。見て見ぬふりをするのは、いじめに加担しているのと同じだぞ。自分や友達がいじめに遭い、先生に言ったにもかかわらず解決してくれない場合は、すぐに親に言いなさい。24時間守ってやる」

 とまぁこんな決意を私は自分の子供たちには折に触れて伝えてきた。幸いにも今まで私が学校に血相変えて駆け込むことはなかったが、このような私から見ると、この社説には不満がある。

 社説の執筆者は自分の子供にどのように言うのが一番効果的で説得力があるか考えてから書くべきだった。

 この社説執筆者は、いったん自分の問題として引っ張り込むという思考方法を知らないようである。 そうでないと、このような説得力のない社説が書けるわけがない。

 7日付朝刊社会面には、<那覇市ぶんかテンブス館><管理者に市長親族><議会で 指摘も「問題なし」>という小さな記事が出た。法的には問題がないとしても、 李下に冠を正さず、の姿勢が特に政治家には求められる。私が市長なら、 こんなことはしない。身内に甘い政治家を私は信用しない。 本来ならば社説で論議するべき問題なのだが、社説は無視した。やっぱりなぁ。 こういう問題こそ社説の出番なのだが、書けないのかなぁ。

 どうでもいいことだが、同日付国際面に、ブルネイ王室の皇太子が 17歳の女子高生と結婚するという記事が目についた。王子30歳、 花嫁17歳。う〜む。羨ましいぞ。

 同日付5面の<読者相談室から>に、<共同通信の配信記事に補足取材を>という 読者の声が載った。国家公務員試験の合格者の人数が全国で何人という 共同通信の配信記事に対して、<沖縄の読者としては全体の数値よりも県内での受験者と合格者の数値に関心があるのではないか>と読者が指摘したのである。 こんなことを読者に指摘されること自体恥ずかしいと琉球新報のすべての記者が 思ったかどうか。読者に指摘されるまで誰も気づかなかったのだろうか。 担当デスクは脳死状態だったのだろう。

 10月9日付朝刊1面に<政府 沖縄に危機管理官新設>という記事が載ったけれど、 私としては<弊社 社内に危機管理官新設>をオススメしたい。

 12日付夕刊から2面で夏目漱石の小説「坊っちゃん」の連載が始まった。 共同通信の企画だろう。著作権が消滅した作品だから無料で使えるという 計算があったと私は推測する。

 この連載について15日付朝刊の<金口木舌>は自画自賛している。手軽に入手できる文庫本になっていて、誰でも簡単に手に入れることができる古典的小説を、新聞に載せることの意味はどこにあるのだろう。しかも、明治文学は表現方法が古いので読みにくい。あえて言うが、読解力に優れる私が「読みにくい」と思うのだ。読者をなめんなよ。

 17日は、連載<不平等の源流>が日本ジャーナリスト会議賞大賞と早稲田ジャーナリズム大賞を受賞したという特集を組んだ。読者として、同業者として、惜しみない拍手を送る。

 21日付文化面には<ミヌダルからはじめる 「にんじん食堂」の5年間>という 記事が載った。料理人兼経営者の実方藤夫さんの話をまとめた記事である。 沖縄の食べ物について万歳を唱える安易な人たちとは異なり、 実方さんは<チャンプルー一辺倒では健康上問題ではないか。味の多様性、食文化の面から見ても貧しいと思う><豚肉も取りすぎ>などと問題点を指摘しており、 もっと読みたいと思った。実方さんに連載をしてもらうといいのではないか。

 23日付朝刊社会面の頭記事<報道規制は「指令」違反>はいい記事だった。 と同時に、沖国大にヘリが墜落した現場で、テレビカメラをかついだ人が米兵2人に 押され、地面にはう消防ホースにつまずいてよろける写真が、報道規制の様子を 実に的確に描写している。絶妙の瞬間をとらえた写真である。

 11月6日付夕刊1面の<南風>に、<背筋が凍り、足先から頭まで鳥肌が立った。こんな体験は初めてだったがじわりじわり感動が湧(わ)き出てきた>という一文がある。 社外筆者の原稿である。

 「背筋が凍る」や「鳥肌が立つ」は恐怖に直面した時の表現だ。ところが、感動したという意味で使っている。明かかな誤用だ。私がデスクなら筆者に書き換えを提案する。ところが、この欄のデスクは提案しなかったんだなぁ。あるいは気づかなかったのか。デスクの怠慢か無知か知らないが、こんなのでいいのかね。

 このような誤用を載せる新聞は欠陥商品である。教育現場に新聞をという運動(NIE=ニュースペーパー・イン・エデュケーション)に新聞各社は取り組んでいるけれど、日本語を誤用する新聞は教育現場で使えないことを肝に命じなさい。

 同じ夕刊の社会面の見出しに、美ら海水族館2周年の記事が載っている。見出しに <魚たちも“祝う”>とある。最近、何でも「たち」をつける傾向がある。例えば、「本たち」「パソコンたち」「携帯たち」などなど。これを変だと思うのは私だけではあるまい。

 11月21日付の<社説>はまずまずよかった。沖縄への観光客をどう増やすかという内容で、<沖縄には「買いたいものがない」「欲しいものがない」「高価な商品もない」「空と海しかない」「魅力的な観光土産品が見つからない」との観光客からの厳しい本音も漏れてくる。富裕層のニーズをもっとつかみたい>という言及は、異論もあるだろうが、沖縄に魅力を感じないと言う観光客の存在と声を取り上げた点で真っ当である。

 私としては、このような観光客に対して「沖縄に何もないのではない。単にあなたの目に見えないだけで、あなたの脳みその問題でしょう」と反論したいところだが、しかし、観光立県である以上はこのような声に耳を傾ける必要がある。

 30日付夕刊の1面頭記事を読んでびっくりした。南風原町に建設中のごみ処理場の建設に関して、中村昌樹・那覇市議が収賄容疑で逮捕されたというのである。

 おおー。ほかにも「ワシも逮捕されるんだろうか」とドキドキしている人がいるだろうなぁ(笑い)。

 12月2日付朝刊は、沼田貞昭沖縄大使が離任会見で語った言葉を問題視する紙面展開である。社会面では批判の声と賛成の声を取り上げて均衡を図った。これはよろしい。

 2面に載った発言要旨で私が注目したのは、<もう少し両方の間の対話が成立してもいいのではないか>という指摘に続けて、<とげとげしい雰囲気で米軍に当たる人もかなりいるが、それをもう少し互いに腹を割って話し合い仲良くしていくことができないかという気がしている>という部分である。

 沖縄大使にこう思わせてしまった点を沖縄側は反省したほうがいい。つまり、沖縄の立場を理解してもらうための戦術に問題があったと受け止めるべきなのである。無理かな? 

 と危惧していたら、やっぱりそうみたい(笑い)。翌3日付朝刊の社説は<沼田大使発言><県民の共感得られない>と来た。最後には<沖縄大使のよって立つところは県民なのか、それとも米軍なのか。次期大使にも問いたい。この際、はっきりさせてほしいものだ>と逝ってしまった。あ、違う、言ってしまった。

 ものごとを白か黒かという二者択一でしか考えられないのは、本多勝一(元朝日新聞記者)と全く同じである。世の中には割り切れないことがたくさんあるのに、白黒で判断しようとすると無理が生じる。

 二者択一の考え方は分かりやすい。社説記者自身も混乱せずに済む。だから安易に白か黒かと提示してしまうのである。しかし、このような思考回路しか持っていない人は社説を書くべきではない。複雑な問題を無理に一刀両断しようとしていること自体の無理に気づかねばならない。

 11日付朝刊1面は独自取材で県内の地方公務員が給与かさ上げをしている実態を明らかにした。労作である。公務員があこがれの職業になるのは地方都市ではよく見られる話である。仕方のない面はあるが、公僕である公務員のお手盛りは許してはならない。

 21日付朝刊の社会面を見て驚いた。西原町の共同住宅の火事で、男性が死亡したという記事である。私が暮らしていた西原町上原の近くにあるので、よく知っている。しかも、そこは新報の記者の住まいでもあったはずだ。大丈夫だろうか。

 25日付朝刊1面の<03年度県生活習慣調査>で<肥満は糖尿病や脳卒中を誘因する>とある。ん? <誘因>ではなく「誘発」ではないか。<誘因>を使いたいのなら、「肥満は糖尿病や脳卒中の誘因である」と書くべきである。

 というわけで、ようやく2004年の『琉球新報』をすべて読み終えた。 どうぞよいお年をと言いたいところだが、これを書いているのは2005年3月26日である。(沖縄王・西野浩史)






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