監督の瀧田一之はビーチサッカーの監督でもあった


キャプテンの久野健二はイタリアまでサッカーの勉強に行った努力家。埼玉出身


J2の「アルビレックス新潟」に所属したことがあるリカルド比嘉。祖父が沖縄出身というブラジルの日系3世

ちばりょー! 沖縄かりゆし

 「株式会社沖縄かりゆしフットボールクラブ」が4月中旬にいよいよ発足する。 クラブチームだった前身の「かりゆしホテルズフットボールクラブ」が、 Jリーグ入りを目指して本格的に始動するのだ。「かりゆし」は沖縄の方言で、 「めでたい」「縁起がよい」を意味する。

 1999年6月に「かりゆしフットボールクラブ」が結成されたのが始まりだ。 当時のメンバーはわずか11人だった。 試合ができる最低限度の人数でのスタートだ。しかし、 J2チームの「ヴァンフォーレ甲府」を相手に対等に戦った末、 PK戦で5対4の僅差で敗れはしたものの、 試合のたびに実力の片鱗を示してきた。事実、ラモス瑠偉さんは 「JFL(ジャパン・フットボール・リーグ)やJ2くらいの実力はある」 と認めている。

 そのラモスさんがテクニカルディレクターとして 「沖縄かりゆし」に参画している。 2000年12月14日には那覇市の翁長雄志市長を訪ねて 公認サッカー場の建設を要請、 今年2月20日から恩納村内で実施した強化合宿では指導にあたるなど、 「3年でJリーグに」(ラモスさん)という目標に向けた 行動をしているのだ。

 このチームは、当初はビーチサッカーのチームだった。 ビーチサッカーはブラジルで生まれたスポーツで、 ラモスはこれの日本代表の選手でもあった。 ビーチサッカーの指導のために訪れた沖縄で、 「かりゆしグループ」の平良朝敬社長と出会い、 サッカーのプロチームをつくろうと意気投合した。 これが「沖縄かりゆし」の原点なのだ。

 Jリーグ入りのためにはいくつか条件があり、 それを整備しなければならない。 まずは会社の設立だが、これは現在進行中だから問題はない。 次は下部組織をつくることだ。 これについては3月20日に選抜試験を那覇市にある 県営奥武山運動公園で実施し、小中高校生が310人ほど集まった。 これをもとに、ジュニア(小学生)、ジュニアユース(中学生)、 ユース(高校生)をつくる。 小学校などでのサッカー教室も開催している。

   さて、3つ目はスタジアムの確保だ。 芝の状態や照明、お湯の出るシャワー施設など細かな基準がある。 ラモスの要請を受けた那覇市の翁長市長はもともと、 県営の奥武山運動公園を県から無償譲渡してもらい、 ここにサッカー場の建設などをしたいという考えを持っていることもあり、 今後は同市と県の話し合いが進む可能性はある。

 もちろん、あらゆることが滑らかに進んでいる というわけではない。その1つは、「沖縄かりゆし」の 選手たちに決まった練習場がないことだ。 那覇市内の波之上のビーチでビーチサッカーの練習をしたり、 漫湖公園内のグラウンドや自衛隊のグラウンドを借りたり、 恩納村内の体育館でフットサルの練習をしたりと、 なかなか落ち着いてサッカーの練習に専念できない。 マネジャーから「練習場を押さえられない。どうしよう」という 連絡を受けた後方支援のスタッフが、慌てて探し回ることもある。

 快適とは言えない環境で「沖縄かりゆし」の選手たちは 地道に練習を重ね、実力を蓄えてきた。 こうした努力に応じるかのように、 2月15日に沖縄県サッカー協会は「沖縄かりゆし」の 県1部リーグへの昇格を決めた。一歩前進である。

 経済的にも決して楽ではない状況でありながら 懸命に夢を追い努力を惜しまない選手やスタッフの姿に、 私たち「沖縄王」は共感を覚え、ロマンを感じる。 3年後のJリーグで「ちばりょー! 沖縄かりゆし」の声援が こだますることを信じて、応援していきたい。




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