変酋長日記 〜バックナンバー〜

 

お粗末沖縄県教委(2006年4月30日)
 沖縄県教育委員会のお粗末極まる迷走を振り返る。
4月24日……公立小中高の教員採用試験で、琉球舞踊と三線、空手の実技を課すと発表
4月26日……今年は試行であり、本格実施は来年の試験からと発表
4月28日……沖縄国際大が県教委に対して中止か撤回を求める動き
4月29日……仲宗根用英教育長が導入見送りを発表

 阿呆丸出しとしか言いようがない。ため息が出る前に失笑が漏れる。
 伝統芸能の導入は沖縄県外からの受験生に不利で公平を著しく欠くばかりか、 なぜ琉球舞踊と三線と空手なのか客観的な説明がない。そもそも教員には そんな趣味を課すよりも科目の教授能力と実力を厳しく問うべきである。
 実力のない教師が教育委員会にも巣食う結果、恥ずかしいドタバタを演じて しまうのである。無能で愚劣な人たちが沖縄県の教育行政を担っていること自体が 問題である。誰も「これはまずいよ」という声を上げなかったのだろうか。だとすると、 沖縄県の教育行政は脳死状態である。仲宗根君をはじめとするお粗末君たちは即刻退任 しなさい。
 全国紙やNHKなどは沖縄のお粗末劇を報じなかったようだ。全国から嘲笑を浴びて 常識を学ぶ好機だったのに。全国紙やNHKなど本土メディアは沖縄に甘い傾向がある。

沖縄はホントに「被害者」?(2006年4月19日)
 新聞に載せる論には一定のレベルが求められるべきである。なぜか?  質の低い論を載せると、その新聞社の質まで落ちるからである。今日付 『毎日新聞』夕刊は、沖縄・普天間移設合意についてふたりの論者の見解を掲載した。 あろうことか新城和博という人の文章を載せて、紙価を落とした。この人は一定の質を 保った文章を書けない人なのにねぇ。
 例えば、V字滑走路について<僕にはこの「V」は、Victim(犠牲者)の「V」にしか見えない> という感情論レベルのこじつけをやっちまった。大丈夫ですか?
 また例えば、<沖縄側の北部市町村会は、名護市長の「合意」を受けてさっそく 「新しい振興策を要求」するそうだ。目の前で揺らぐ大金の陽炎に、じんわりと地域は 分断されていく>と記し、沖縄を被害者として描く。「沖縄=被害者」という構図は 基地反対論者が好んで書く典型である。そういえば元朝日新聞編集委員の本多勝一さんも 「私=被害者」という構図に逃げ込むのが得意だった。
 「私は被害者なんです。かわいそうなんです。同情するならお金をください。 ね、ね、ね、ね」と「被害者」の立場に逃げ込む手法からそろそろ脱却したほうがいい。
 さて、沖縄で暮らしていない私でさえ関連地域が振興策を要求することくらい 最初から予想がついていた。そもそも振興策を要求しなかった過去が1回でもあった だろうか。
 <沖縄では何をやってもいいような状況が作られつつある。正直恐ろしい話なのだ、 これは>と倒置法を使っているけれど、振興策を求めているのは沖縄の人ですぜ。 そのことを棚に上げて「沖縄=被害者」を描いてしまう脳力こそ<正直恐ろしい>。
 私が『毎日』の担当デスクならこんな原稿は載せない。せめて修正させて原稿の質を 上げる。『毎日』は原稿を読む力量を失っているのだろうか。だろうなぁ。

本を見る目(2006年4月18日)
 『楽園沖縄』(昭文社)というムック本を買った。 私の著書『沖縄に恋する』が紹介されているという連絡を 編集者の面代さんからもらったのである。
 本の紹介ページを見て驚いた。陳腐な表現だが、驚いたと いうしかない。私の本のほかに、『沖縄文化論』(岡本太郎・中公文庫)と 『琉球布紀行』(澤地久枝・新潮文庫)、『神々の食』(池澤夏樹・文藝春秋)、 『なんくるない』(吉本ばなな・新潮社)が挙げられていたのだ。
 本を選んだフリーライターの藤原家長さんの文章によると <沖縄の素顔に深く迫った本を取り上げてみた>ということである。真っ当な本を 選ぶ姿勢に拍手を送りたい。それは私の著書が取り上げられているからではない。 従来から私が言っているように、沖縄についての莫迦本があまりに多い。 沖縄は笑う対象ではないし、卑屈になるべき対象でもない。対等な目線で、 それでいて沖縄の独自性を普通に描くべきなのに、あまりに 誇張した本が氾濫している。沖縄はゲテモノではないぞ。
 『沖縄楽園』が真っ当に本選びをしたことは奇跡に近い。ライターの 藤原さんの本を見る目と良識にもう1度拍手を送りたい。

なーべーらー定食(2006年3月16日)
 「なーべーらー定食」。東京・銀座をフラフラ 歩いていると目についた。沖縄料理の店である。 「なーべら」や「なーべーら」ではなく「なーべーらー」と 表記してある辺りがうれしい。
 かつて私が那覇高等予備校で講師をしていたころを思い出す。 「なーべら」と言ってしまうたびに、教え子から 「西野さん違うよ。なーべーらー」と指摘されてきた。 気の短い私は「なべら」でも意味は通じるだろうにと思いつつも、 3つの音をわざわざ「ー」で伸ばすのんきさが新鮮だった。
 私の知る限りでは本土の沖縄料理の店で「なーべーらー」と 記したところは少ない。それだけに「なーべーらー」という 表記から沖縄の空気を感じた。さっそくここで 「なーべーらー定食」を食べたのは言うまでもない。
 店の名前は「ちゃんぷるぅ家」という。

国仲涼子ちゃんとの接点(2006年1月8日)
 「あいやー、もうちょっとだったのに」。 沖縄王の仲間であるビーンさんから私の携帯に 電話が入った。
 「職場の近くに国仲涼子が来るっていうから、 変酋長の本と名刺と携帯電話の番号を記したメモを用意して、 彼女に渡そうと思ったわけさ。バイクで向かったんだけど、 緊急の仕事が入ってしまって、会社に戻らなくては ならなくなってね。ごめんね」
 出会わなければ始まらない。
 私は国仲涼子ちゃんを知っているが、国仲涼子は 私の存在を知らない。ふたりが激しい恋に落ちないのは これが原因である。

沖縄の夜(2006年1月7日)
 「沖縄の夜は外出したくなる不思議な空気に包まれる」。 これは、パリで暮らしている私の教え子と 一致した意見である。
 彼女が一時帰国したので、東京・西新宿で話をした。 その際に沖縄の“魅力”について話し合った。
 沖縄はいかにも南国らしい熱気に包まれ、 「外に出たら何かいいことありそうだ」と人に思わせる。 ただれた雰囲気を醸し出していると言ってもいい。あれが 沖縄の夜の魅力であり、同時に一般的に県民を夜行性に 走らせている元凶でもある。そして、沖縄の経済発展を阻む遠因でもある と私は見ている。

沖縄はハワイに勝てる(2006年1月2日)
 仕事で年末年始をオアフ島で過ごした。温暖な観光地 として、ハワイは沖縄と同じくらい人気がある。
 しかし、である。ハワイは、
(1)お金をドルに交換しなければならない (2)料理は脂っこく、イモばかり (3)日本語が完全に通じるわけではない (4)治安に問題がある (5)右側通行なので車で走ると混乱する (6)時差がある  という点で、沖縄に勝てないのである。

教え子からの電子手紙(2005年12月22日)
 <西野先生おげんきそうですね>という題名の電子手紙が届いたのは 10月15日のことだった。
 県内の某ステーキ屋を検索したところ、唯一「おいしくない」と書いていた のがこの沖縄王だったという。<ふと気になって覗いてみました。(略) まさかと思ってプロフィールたどってみるとなんと私が高校生の時通っていた 予備校で小論文を担当していた西野先生ではあーりませんか?>
 そう言われれば、私は「ま〜あぁごきげんさん!」と返すしかない(以上、 吉本新喜劇を知らない人には分からないかも)。
 そう。私は1987年春から89年春まで那覇高等予備校で講師をしていた。 23歳〜25歳のころである。英文読解と現代文読解、それに論作文を教えた。 対象は高1から浪人生まで、つまり全学年である。
 この教え子はカナダに在住だという。そういえばパリ在住の 教え子もいるから、私はカナダとフランスに宿を確保しているような ものだなぁ。
 このような形で“再会”できるのがインターネットの 面白さと言える。ただし、“再会”を実現するためには 実名を出すことが前提だ。実名を出していれば、こんな ご褒美がたまにあるのだ。

いい記事(2005年10月27日)
 沖縄報道には、報道する側の希望的観測や主義主張が入りすぎた トンデモナイものが多い。しかし、今日付の『毎日新聞』朝刊は沖縄の 現実をしつこく指摘しており素晴らしい(というか、当たり前の記事がようやく 出てきた)。
 普天間移設先合意に関する3面の記事から抜き出す。
 <現行計画は大規模な埋め立て計画に伴う「利権」><埋め立て利権の 伴わない嘉手納統合案に地元政財界の反発が強まり><埋め立て利権も考慮に入れた 折衷案>
 『毎日』夕刊の社会面は、名護市辺野古で住民が抗議の座り込みをしている という記事の中に<住民には「新しい仕事を生み出すために仕方ない」 という声も聞かれる>と記述した。
 今日付の『毎日』は沖縄の状況を実に客観的に報じた。一方的な視点からの 沖縄報道がようやく幕を下ろそうとしているように見える。
 『毎日』の真っ当な記事に対して、依然として沖縄県民全員が基地撤去を 求めているかのようなウソデタラメ誇張をし続けるみなさん、 これ以上笑われないようにしましょうね。

博多・西中州の「自然料理屋なぎの木」の店員さんからの電子手紙(2005年10月14日)
 博多・西中洲の「自然料理屋なぎの木」で働く女性の話を6月12日の日記で書いた。その 女性から沖縄王宛てに電子手紙が届いた。ルネッサンスリゾートオキナワに合格したという。
 おめでとう!
 何でも、彼女の先輩がこの変酋長日記を読み、「あなたのことじゃない?」と 教えてくれたそうで、読んでみたら「私だった!」。 「さんぴん茶の話をした人で、沖縄の本を出している人だ」と すぐに思い出したという。
 うれしいなぁ。私も彼女も沖縄県民ではないが、これぞ「いちゃりば ちょーでー」である。
 「なぎの木」での楽しいひとときを鮮明に思い出す。 料理はうまいしお店の対応は丁寧だしで、宝のような、至福の時だった。
 彼女は来春から沖縄県民である。女の前途を祝して乾杯!

バレバレ(2005年9月25日)
 沖縄県民全員が米軍基地の撤去を求めているという 趣旨の報道や論評を見ることがある。このような デタラメが生じる原因は、(1)取材者が脳梗塞である (2)取材者が左翼である(3)取材者に基本的な取材能力が 欠落している、のいずれかである。
 今日付の『毎日新聞』は1面と2面を使って普天間基地の移設先に 関する記事を展開した。取材者は上記の3つのいずれにも陥っていない ようだ。嘉手納基地への統合案について<建設費総額1兆円ともいわれる 辺野古沖埋め立て計画の経済効果に期待する沖縄経済界や 自民党沖縄県連が強く反発した>と明記したのである。 <「埋め立て利権」への期待が地元にあったことは否めず>という 記述もある。
 いや、この記事を待つまでもなく、私が1回目の沖縄暮らしを満喫した1987年に、 那覇市内のゴルフ用品店の人から「沖縄の人みんなが米軍基地に反対している わけではないからね」と教えてもらったものだ。ちょっとだけ耳を澄ませば、 米軍基地撤去が県民の総意ではないことくらいすぐに分かる。
 バレバレなのに、デタラメを重ねる報道機関や取材者、論者はだ〜れだ?!

三笠(2005年9月21日)
 一緒に仕事をしている50代の平良祐一医師は 那覇高の出身である。「高校時代に ご飯を食べによく行った店は、58号沿いにある 24時間営業の食堂でね」「もしかして三笠ですか」 「そうそう。よく知ってるね」「あそこの バターライスはうまいですよねー」「あのバターは沖縄で 売られているアメリカのバターさね」
 私が1回目の沖縄暮らしをしていた1987年から89年にかけて、 三笠には実によく通った。すき焼き定食を注文して、 備え付けのバターをご飯に溶かして食べるのが楽しみだった。西原町から わざわざ食べに出かけたこともある。
 三笠は今も健在だ。かつては狭い店だったが、 今では店舗面積を広げている。24時間コツコツと 営業してきた努力のたまものだろう。沖縄から遠く離れた 東京で話題にのぼるのは、いい店の証拠と言っていい。

元気さん、ありがとう(2005年9月3日)
 私が書いた本をどう評価・批評されてもいい。 ただ、自分は物陰に隠れて匿名で無責任な書評を書く人に対しては 疑問を抱かざるを得ない。そういう無責任な感想文を そのまま載せるアマゾンのカスタマーレビューには首をかしげてしまう。
 私の本『沖縄に恋する』(WAVE出版)に対して、アマゾンには無責任な感想文が 載っているのだが、下記のようなまともな書評も載っていることに気づいた。
 <沖縄を持ち上げるだけの本が多くて、県民は「ちょっと違うんじゃないの」と 思っている。でもこの本は沖縄のマイマス面も書いてある。本土出身者が沖縄で 暮らすことの大変さも書いてある。だから、県民の私は「この本はまとも」と思う。 沖縄暮らしに意外性や非日常性を求めてはいけないよ。うん。暮らせば日常になる んだからね。この本に取り上げられた人たちが沖縄に根付いて暮らしている様子が分かるし、 時にはウチナーンチュとの問題に直面することもあるって分かる。沖縄暮らしの 現実が一番よく見える本じゃないかな>
 <沖縄暮らしが一番よく分かる本>という題名で書いてくださった<元気>さん、 ありがとう。きっと元気いっぱいの人なんでしょうね。

沖縄戦との向き合い方(2005年8月2日)
 <米兵が周りにいて、外に出られず、声も出せず、赤子がいつ泣き出すか分からない。 大人だけ輪になったその夜。私が横目で輪の中を見ると、祖父が片ひざをたて、 弟の達夫の口の中に布かおしめを強く押し込んでいた。弟は手を2、3回ばたつかせて、 静かに息を引き取りました>
 今日付『毎日新聞』朝刊の「女の気持ち」欄への投稿である。
 このおじいさんや赤ん坊の母親、そして達夫ちゃんの苦しみは 想像を絶する。<60年たっても一人一人がずっと引きずります>と いう結びの一文が深い。
 住民が地上戦に巻き込まれた沖縄戦の実相の1つである。このような 個人的体験を共有していくことが、いろいろな意味で 救いになるのではないか。共有して、共感して、一緒に胸を痛めることが、 沖縄戦との向き合い方だと思う。

あーめん(2005年7月30日)
 沖縄王をやっているとたまにこんなメールが届く。 同一人物が3通も寄越した。よほど暇なのだろう。 投稿者の実像に迫る(笑い)。

 (1通目)これやってる人って、たかだか沖縄ブームで移住しただけだろうにさ、 何を勘違いしてんだか、わかったようなこと言ってるよね。自分じゃ物書きのつもり らしいけど、薄っぺらって言うか、思い上がりって言うか、わかったような沖縄ヅラして 語っちゃってさ、たまに検索で引っかかるから見ると、ひとごとだけど恥ずかしいよ。 でね、へんなコンプレックスみたいな臭いもあるから、気持ち悪いなって思ってたら、 この人、どこか本土のマスコミ、首になって沖縄逃げてきたんだって? あ、なるほどねって 気がしたよ。聞いた話だけど、この手の人って、どこにでもいるんだってね。元記者が自慢、 だけど負け犬みたいな? たいしたことやってんじゃないんだからさ、勘違いは ほどほどにして、せいぜい頑張りなよ。たまに見てやるからさ。じゃあね。

 (2通目)きょうも元気にゴミ情報垂れ流して得意になってるかい? 変酋長!って、センスのない ネーミングだよねえ、これも。せっかく移住者の恥ずかしい勘違い、薄っぺらさを 指摘してやったのに、お礼の返事もなしかよ、このバカは。しょせん子供だましの クズ情報ばっかりなんだからよ、思いつきで沖縄語ったりすんじゃねえよ。お前のバカな 頭じゃ100年早いんだよ(もっとか)。

 (3通目)ここの情報って、ぜんぶ誰でも知ってるよねえ。こんなクズ情報ありがたがってる バカって、救いようないし、それで沖縄ヅラしてる西野浩史ってのも哀れだよね。 薄っぺらで痛々しいよ。イタ過ぎるよ。クズ情報垂れ流して、もの言うんじゃねえって。 ああ恥ずかし恥ずかしい。返事くれよ(笑)。

 3つのメールを読むと、投稿者の人物像が浮かぶ。
 (1)記者になれなかった人である。試験に落ちたのだろう。新聞社の試験は難しいから、 莫迦や軟弱な人は合格できない。いずれにせよ、この人はデタラメな文章を 書いても平気な脳をお持ちなので、記者には向いていない。おかわいそうに
 (2)非常に陰気な性格
 (3)今の会社では傍流の仕事をしている。例えば、テレビ局の主流は 報道記者とディレクター、プロデューサーだが、これら以外の仕事をしている
 (4)私(西野)に興味がある。私に勝ちたいのだけれど、面と向かって議論すると私に勝てないから、 草葉の陰から私をうらやましそうにまぶしそうに見ている
 それにしても、匿名でデタラメを書いてくる暇な卑怯者が世の中に存在するんだなぁ。 こんな人にも人権が保障されているのだから、日本はいい国だなぁ。 なんまんだぶなんまんだぶなんまんだぶ。

涙の取り消し(2005年7月22日)
 全日空から電子手紙が届いた。9月9日午後8時羽田発那覇行きの 座席が確保できたというのである。誕生日割引の座席だから安い。
 「ああ、1日遅かった」。悲鳴に似たため息が出た。
 帰路の「那覇→羽田」は超割で確保してあった。 往路の「羽田→那覇」は、超割は満席で確保できず、それなら 誕生日割引で確保してやろうと考え、空席待ちを申し込んでおいたのだった。
 「那覇→羽田」の超割の支払い期限はきのうだった。 きのうまでに「羽田→那覇」の誕生日割引の空席待ちが確保できれば、 往復の座席を確保できたことになり、代金を支払うつもりだった。
 きのうはとうとう連絡が来ず、やむなく「那覇→羽田」を 取り消した。その翌日になって「羽田→那覇」が確保できたと 言われても遅い。遅すぎる。あとの祭りである。

沖縄民謡?(2005年7月19日)
 仕事仲間と東京・新宿で歌の小部屋に行った。索引を見ると、 沖縄音楽の欄がある。よっしゃー!
 私の好きな「かちゃーちドンドン」が載っている。 歌うぞー。でも、これは前川守賢さんの歌なんだろうか? 歌い手の 名前は記されておらず、「沖縄民謡」となっているので、心配になる。
 このあと歌った「ありがとう」も、「りんけんバンド」との表記ではなく 「沖縄民謡」となっていた。
 思った通りの歌を歌えたからよかったものの、しかし、ほとんどを 「沖縄民謡」でくくっているのはあまりに不勉強である。 沖縄音楽をきちんと扱うべし。

超割航空券を確保できず(2005年7月8日)
 全日空の予約画面が途中で固まってしまった。ああ、しまった。
 琉球舞踊館うどいの公演1万回記念交流会が9月11日に開かれるので、 超割航空券で沖縄に久々に帰ろうと決めた。午前9時半から始まった 超割受付の予約をするため、電脳情報網に接続したのが午前9時50分ごろだった。
 ところが、日本航空はすでに満席状態である。ありゃりゃ。 慌てて全日空に行ってみたところ、まだ空きがある。よっしゃ。ここで さっさと予約を入れればよかったのに、どの便にするか10秒くらい迷ってしまった。
 これが命取りになる。その先に進もうとしても、接続が多いようで進まないのだ。 何度も何度も接続を試み、しばらくしてようやく先に進めたものの、時すでに遅し。涙。

いちゃりばちょーでー(2005年6月26日)
 横浜のそごう近くにあるドトールで那覇市出身の新垣さんを 取材した。この沖縄王を見て電子手紙をくれたのがきっかけで、 「ちばりよーしまんちゅ」用に取材させてもらうことになったのである。
 新垣さんは好青年だった。これで「ちょーでー」が増えたと私は喜んだ。 「ちょーでー」になるためには「いちゃりば」が欠かせない。 「いちゃりば」を実現するために、いつでも電子手紙をください。
 思えば、ビーンさんの場合も私に電子手紙をくれたのがきっかけで 佐敷町にある喫茶店「風の里」前で会い、いきなり激しい“恋愛”関係に 陥ったのだった。

どう見る?! 沖縄の米軍基地「必要」派30%(2005年6月22日)
 今日付の『毎日新聞』朝刊1面頭記事によると、 在沖米軍基地を「不要」としたのは沖縄県内では70パーセント、 全国では45パーセントだったそうな。毎日新聞社と琉球新報社による 世論調査の数字である。
 見出しに<意識差鮮明>とあるが、当ったり前だろ、何を今ごろ言ってんだ。
 さて、問題は沖縄県内で米軍基地を「必要」「どちらかと言えば必要」を 合わせた割合が30パーセントに達することだ。大ざっぱに言って、3人に1人が 米軍基地の存在を肯定しているのである。
 肯定したのはどんな人たちなのか。30パーセントという数字は小さくない。 一歩譲って小さいとしても、日本の中の少数派である沖縄の、 その沖縄の中の少数派の存在を無視していいのだろうか。

博多で語る沖縄の米軍基地問題(2005年6月13日)
 私の毎日新聞社時代の同期・加藤学さんに博多駅前の朝日新聞社ビル(よりによって!)1階で会う。 1989年に会って以来だから16年ぶりだ。
 加藤氏は毎日新聞西部本社で労組の副委員長をしている。沖縄の米軍基地問題に関心を 持っており、琉球新報記者らと交流してきた。そこで、ついつい話はその方向に進んだ。
 「米軍基地撤去を主張するのは、米軍基地で働き生計を立てている人を 無視している」と私は持論を展開した。加藤氏は「撤去を主張するには代案が 必要ということ?」と聞いてきた。
 「それは違います」。直感的に思った。「『代案を出せ』という聞き方では、 基地撤去を主張する人たちの根本的な偽善と無責任に気づかないままになってしまう。 代案がどうこうではなく、基地撤去派には『では、あなたは基地で働いている 8000人以上の人の生活をどう考えているんですか』という表現でもって 私は聞きたいですね」
 私は新聞社を離れて性格がずいぶん歪んだのかもしれない。でも、 見えてきたことが1つだけある。基地で働くことで収入を得ている「生活者」の存在である。 「生活者」抜きの議論は無責任だと思う。
 加藤さん、また熱く語り合いましょうね。

博多・西中州の「自然料理屋なぎの木」で(2005年6月12日)
 店員さんが声をかけてきた。「沖縄のかたですか」
 出張先の福岡・博多で晩飯を食おうと、 たまたま見つけた「自然料理屋なぎの木」に入った時のことである。
 ジャスミン茶を注文した際、私が「要するにさんぴん茶だな」と言ったのを 聞き、もしかしてと思ったそうだ。
 彼女は旅行関係の専門学校生で、つい先日ブセナの面接を受けてきたばかり だと言う。私にとってのブセナは、原付バイクで西原町と名護市を往復するたびに コーヒーを飲みに立ち寄ったホテルである。ビーンさんとデジカメでいろいろな 写真を撮って遊んだホテルの1つもブセナだった。
 沖縄のホテルに就職できれば沖縄でずっと暮らしたいと語る彼女に、 「私の本を読みなさい」「沖縄王を見なさい」と教えておいた。
 沖縄で働けるようになればいいね。
 なお、この「なぎの木」は5つ星の店である。料理の内容も味も店の人の気配りも 満点である。

国仲涼子ちゃんの誕生日の「沖縄1945年」(2005年6月9日)
 今日は国民の祝日に相当する国仲涼子ちゃんの 誕生日である。
 60年前の沖縄を追う『毎日新聞』東京本社版夕刊「沖縄1945年」の 今日付紙面は<6月9日 亡く子を拒む>という見出しだ。
 糸満市真壁で起きた出来事を県史から拾って、こう紹介した。
 <親とはぐれたか、5、6歳の男の子が泣きながら家の周りを歩いていた。 近寄ってくる度に避難民たちはその子を追い返した。泣き声で敵に感づかれては 困る。「あっち行かんか」としかりつけ、しまいに子は泣きながら去った。 どうしようもなかった――。>
 涼子ちゃんの幸せと戦争犠牲者の冥福を祈るしかない。

沖縄ツーリスト新橋支店での選択(2005年6月8日)
 沖縄出身の知り合いから頼まれ、羽田−那覇の航空券の予約をするために、 東京・新橋にある沖縄ツーリストを訪ねた。大きな声では言えないのだが、 ここは羽田発着の沖縄往復航空券が安い(ただし直前の変更はできない)。
 航空会社を行きは全日空、帰りは日本航空に決めた。私が乗る場合はいつも 複数の飛行機会社を楽しんでいるからである。しかし、最近の日本航空には 大きな不安がある。私が乗って墜落するのなら仕方ないが、 知り合いが死んでしまうのは気持ちのいいものではない。
 そこで、行きも帰りも全日空に改めた。私はできる限りの安全配慮をした ことになる。

平良とみさんに会いたかったなぁ(2005年5月24日)
 平良とみさんの“管理”をする事務所・株式会社エーシーオー沖縄に、 平良さんの取材を先週末にメールで申し込んだ。23日に電話をかけたところ、 今日の午前中に返事をくれるということになった。しかし、予想通り、事務所から返事が来ない。
 しびれを切らした(というか気の短い)私が再び電話を入れてみたが、 それでも即答できない様子である。
 この場合私がすがることができるのは玉城村の琉球舞踊館うどい社長の 平良さんしかいない。すぐに電話をかけ、橋渡しをお願いした。 平良さんはすぐに動いてくれた。とみさんの夫である進さんに直談判 してくれたのだ。私は進さんに電話をかけてあらためてお願いし、 進さんは事務所に口添えしてくれた。
 しばらくして事務所から電話がかかって来た。 取材を受けられないことと自宅に電話しないようにというお返事であった。即答してきたのでびっくりした。
 平良とみさんに会うのがこれほど大変だとは知らなかった。残念ではある。
 私の突然のお願いに快く応じてくださった「うどい」の平良さんと、どこの馬の骨(私のことね)か 分からないにもかかわらず快く応じてくださった進さんには心から感謝申し上げます。 本当にありがとうございました。
 株式会社エーシーオー沖縄はしっかり仕事をするように(笑い)。

風が吹けば方程式(2005年5月18日)
 玉城村にある琉球舞踊館うどいの平良信孝社長が電話をくれた。 うどいに河合隼雄文化庁長官がやってきたとわざわざ 知らせてくれたのだ。
 実は、ここに来るまでいくつかの「たまたま」があった。
 まず、私の毎日新聞福島支局時代の先輩である澤さんが、 退職後に新たな人生を送っている人を取材しようとして、 適当な人をたまたま探していた。
 東京高裁長官を退職して沖縄で暮らしているゆたかはじめ先生をたまたま 知っていた私は、その時期にたまたま開かれた福島会(福島支局同人で構成する)で 会った澤さんに話した。
 澤さんの取材申し込みについて、ゆたか先生が快諾した。
 『毎日新聞』生活家庭面に掲載されたゆたか先生の記事を、 河合長官がたまたま読んで興味を抱き、ゆたか先生と対談することになった。 ゆたか先生が河合長官にうどいの素晴らしさを必然的に語り、 河合長官は必然的に関心を持った。こうして、今日の日を必然的に迎えたのである。
   「たまたま」から始まった話が「必然」になって結実する過程は こんなものなのだろう。注目すべきは、どの段階も、人と人の つながりで次の段階に進んだことである。

名古屋の沖縄情報(2005年5月14日)
 7時間ほど名古屋駅前周辺にいた。
 名古屋駅前の高島屋に「沖縄アロハシャツ」と銘打ってパイカジの 商品が陳列されている。隣に並ぶのは「名古屋伝統工芸有松しぼり」という 同様の商品である。
 駅の近くには沖縄ツーリストの支店があるし、錦町には沖縄料理店がある。 この沖縄料理店の近くにある錦クリニックの院長の父親は、 かつて那覇市の一銀通りで平良耳鼻科を開業していた。

日本テレビの「瑠璃の島」を見て、NHKの「ちゅらさん」のよさを思う(2005年4月16日)
 沖縄の鳩間島を舞台にしたドラマの第1回というので見てみた。 私は違和感を抱いた。
 確かに沖縄の風景である。しかし、肝心の役者さんたちに 沖縄のにおいのする人がいない。つまり、現実感がないのだ。
 青い海や青い空、ヤギ、ヤシガニなどが出てきて沖縄らしさを 出そうとしているようだが、有名な役者たちが出てしまうと、 どこが舞台なのか分からなくなる。
 思えば、NHKの「ちゅらさん」で私が驚いたのは、 沖縄出身の役者や音楽家などを数多く起用していたことだった。 その人物の沖縄なまりや空気が図らずも沖縄の空気を表現し、 現実感が漂った。それが、この「瑠璃の島」には全くない。
 しかも、あろうことか、「ちゅらさん」に出演していた小西真奈美さんを 教師役で登場させているではないか。安易としか言いようがない。 配役の失敗である。
 「ちゅらさん」はよくできた番組だったと認識させてくれるのが、 この「瑠璃の島」である。

前琉球新報ワシントン駐在の森暢平さんを訪ねる(2005年4月12日)
 東京・小田急線の成城学園前駅で降りる。元朝日新聞編集委員の 本多勝一さんに初めて会ったのはこの駅前の古ぼけた喫茶店だった。 まさかその本多氏とのちに一緒に仕事をして、激しい 攻撃を受ける身になるとは思いもしなかったなぁ、などと 感慨にふけりながら成城大学に行く。
 この大学で今春から森暢平さんが教鞭を執っている。森氏は 琉球新報ワシントン駐在として活躍した。残念なことに今春 この職を離れ、日本で学者の道を歩み始めているのだった。
 ジャーナリズムについての原書講読の授業中にお邪魔し、 私は20分ほど話をした。学生たちの反応は良好だった。 だから言うわけではないが、良質の学生である。「反応ぶり」で おおよそ分かる。
 「西野さんはやっぱりしゃべるのがうまいですねー。 口先だけで人生を渡ってきただけのことはある」。授業後、 森先生に褒められた。ありがとね。
 森先生はいろいろな人の授業を聞いて、話術や話し方を 学んでいるようだった。琉球新報ワシントン駐在として もっと活躍してほしかったと思うが、人生いろいろ、 事情もいろいろである。
 しかし、優秀な記者だっただけに学者にするのはもったいない。 森先生に琉球新報成城大駐在を兼務してもらうというのは 無理かなぁ。

ビーンさん父子、日帰りで東京に(2005年4月10日)
 沖縄王の仲間であるビーンさんが小3のおチビちゃんを連れて 東京に飛んできた。滞在時間7時間30分という強行軍である。
 かつて私が沖縄に帰った時に「友、遠方より来る。また 楽しからずや」と言いながら笑顔で那覇空港に迎えに来てくれた ビーンさんを、熱烈歓迎しないわけにはいかない。
 おチビちゃんのご希望でテレビ番組「金八先生」の収録地を訪ねることにした。 下町に住む友人に教えてもらい、掘切駅を目指す。
 私は「金八先生」を見たことがない。私が愛した「太陽にほえろ!」の裏番組だったし、 視聴率競争で「太陽」が苦戦を強いられた相手だから、今も見たくない。
 さて、おチビちゃんは「ここ、テレビで見たことがある!」と大喜びしている。 何の変哲もない駅舎を写真に撮っている人が何人もいるので、 どうやらここらしい。
 河川敷に行ってみると、これまたごく普通の芝生を背景に記念撮影している 若者がいたりするので、私たちも真似をして写真を撮る。
 そんなことをしているうちに帰りの飛行機の時間が迫ってくる。 JR浜松町駅でビーンさんとおチビちゃんを見送った。
 おチビちゃんから「チャーリー(と私は呼ばれている)、 うちに来て泊まればいいのに。ずっといていいよ。給料は 毎月40万円あげる。ボーナスはなしね」とありがたいお誘いを受けたので、 これを受けるかどうか検討しようと思う。

ゆいレールで見た変な人(2005年3月25日)
 沖縄で2泊3日して帰ってきた長男が、 「ゆいレールで変な人を見た」と言う。
 どこかの駅(県庁前駅から赤嶺駅の間のどこか)で降りる人がいた。 背広を着たその人の後ろ姿を何気なく見送って、一瞬考え、「え?」と驚いた。
 素足にビーチサンダル履きだったのである。

こうなん高校(2005年3月21日)
 神奈川県平塚市在住の私の長男が沖縄の祖父に電話をかけて、 高校合格を伝えた。
 「おかげさまで合格したよ」「どこに合格したんだ?」 「江南高校」「興南高校?」「そう、江南高校」 「沖縄の高校に来るのか?」「行かないよ」 「そうか。でも、興南高校だろ?」「そう、江南高校」 「だったら、下宿しないといけないね」「何で下宿を?」 「だって平塚から興南高校には通えんだろう」 「江南高校には自宅から自転車で通えるよ」「もう 沖縄に越して来てるのか?」「……」「……」

長谷川さゆりさん、私に連絡ください(2005年3月19日)
 沖縄王の「ちゅらさん」に登場してくださった長谷川さゆりさん、 これが目にとまったら私・西野に連絡ください。
 あなたの記事を偶然見つけた「と○○○学園」時代のご友人が 連絡を取りたいとのことです。
 あなたを取材したのは2002年12月でした。取材担当者の おぼろげな記憶を頼りに、県内外に電話をかけて追跡を試みたのですが、 見つけることができませんでした。
 私の電子手紙住所は、nishino@okinawaoh.comです。

面接(2005年3月16日)
 東京出身の大ちゃんは今春、沖縄に引っ越す。 沖縄の企業への就職が決まったからである。
 その企業の採用試験は東京で開かれた。面接は4人1組で行われ、 大ちゃんの組の面接が最後だった。面接が始まって数分後、 社長さんが「飲みに行こう」と声を上げた。
 場所を居酒屋に変え、“面接”になった。社長が大ちゃんの隣に 座った。
 この話を聞いた大ちゃんの友人は「あり得ねぇー」と驚いた。 私も笑うしかなかった。しかし、形式より実質を重視すれば、 面接はどこでも可能だ。居酒屋でできないわけがない。 お酒の場では素が出やすいから、むしろ面接場所に適しているとも 言える(かな?)。
 こうして大ちゃんは居酒屋での“面接”で合格が決まった。だからといって、 沖縄に引っ越してから、社長さんに「酔っていたので覚えていない。 あんた誰ね?」と言われることはないだろう。

沖縄の食生活(2005年3月15日)
 今日付の『毎日新聞』夕刊社会面にある小欄「憂楽帳」に 中坪央暁という記者が「坂道の食堂」と題する小さな記事を書いている。
 この記事の中に<長寿県・沖縄も近年、食生活の変化で健康神話が揺らぎ>という 記述がある。  近年の食生活の変化? どういう意味なのだろう。
 食生活の西洋化という意味なら、27年に及ぶ米軍支配という環境の影響で、 日本の中で最も早く食生活の西洋化が進んだのが沖縄である。<近年>と 書いているけれど、きのう今日に始まった話ではない。
 いま長生きしている沖縄のお年寄りはイモを食べてきた世代である。 この世代は沖縄に限らずイモを食ってきた世代である。
 うーむ。この記者が書く沖縄ものには一抹の不安がつきまとう。 私が心配してあげる必要は何もないのだが。

一人歩きする“亡霊”(2005年3月8日)
 今日付の『毎日新聞』夕刊社会面にある小欄「憂楽帳」に中坪央暁という記者が「コザのYさん」と題する小さな記事を書いている。ここにまたまた出ているのだ、“亡霊”が。<“癒やしの島”にあこがれる移住者は年間2万人いるが>と断定してしまっているのである。あちゃ〜。
 <年間2万人いるが>とあっさり書いているが、佐敷町の人口が1万1000人前後だ。佐敷町の2倍の本土出身者が沖縄に毎年移住していたら大変な事態になる。
 どこかの莫迦が言い出したデタラメな数字を鵜呑みにして書き写していいのなら、幼稚園児でも新聞記者が務まる。記者はそんな楽ちんな仕事なのか。
 誰かこの<2万人>という“亡霊”の息の根を止めてくれ。

東京・新宿の伊勢丹で沖縄の空気を味わう(2005年2月24日)
 さすが伊勢丹である。何が「さすが」かというと、 23日に始まった「春の沖縄美味物語」という催しに、 「にんじん食堂」と「てだこ亭」を出店させているからである。 実力派であるこの2店を選んだのは、見る目がある証拠だ。 うーむ(感嘆してうなっている様子)。
 ほかにも県内のお店が多数出店しており、 私は沖縄に帰ったかのような錯覚に陥った。
 「にんじん食堂」と「てだこ亭」には共通項がある。 @経営者兼料理人が本土出身者A球舞踊館うどいを支える会の仲間 B私の知り合い(これはどうでもよいと言えばどうでもよい)、 という3点である。
 最終日の3月1日まで、伊勢丹に通わねば。

久高島簡易郵便局(2005年2月23日)
 沖縄の友人・内間さん(那覇ビジネススクールでの講師仲間)から 年賀状を兼ねた「お知らせ」のはがきが届いた。 両親の生まれ島・久高島で簡易郵便局を開局するという。 宿泊と喫茶も併設するようだ。
 久高島に一度行ってみたいと思いつつ、 私はまだ行ったことがない。
 <大歓迎です><では、おまちしております>と 熱烈歓迎してくれそうな文面である。そこまで 言われれば行かねばなるまい。郵便局長の大歓待を受けに 行かねばなるまい。

嫌な季節(2005年2月23日)
 のどがかゆい。いよいよ花粉症の季節の到来である。 春一番に乗って花粉が乱舞しているのだろう。 想像しただけで苦しくなる。花粉症がないと言われる 沖縄と北海道の人が羨ましい。
 私は18歳ごろから発症している。当時は「花粉症」という言葉はなく、 「アレルギー性鼻炎」と診断された。花粉症歴23年を誇るのだ。 えっへん(←そんなので胸を張るな)

本(2005年2月18日)
 思わず立ち止まる。寂しいような懐かしいような嬉しいような、 そんな気持ちになって、しばし凝視した。
 昨年亡くなった牧港篤三さんの『沖繩人物シネマ』(ボーダーインク)と 私の本『沖縄に恋する』が東京・新宿の紀伊国屋書店新宿南店の本棚に 隣り合わせで並んでいたからだ。
 つい先日、郵便物を整理していたら牧港さんからのはがきが出てきた。 消印は1997年3月8日になっている。『週刊金曜日』を出版する会社(の経営陣である 本多勝一さんたち)を見限って辞めた私を励ます内容である。
 若輩者を気遣ってくださった大先輩記者にあらためて頭を下げた 矢先だったので、牧港さんと私の本が仲良く肩を並べる光景を見て、 柔和な笑顔が脳裏に蘇った。
 少しでも“お返し”できることはないだろうかと考えている。

新「ガッキィファイター」に(2005年2月15日)
 私が分担執筆した『使える新書2』(WAVE出版)で 日垣隆さんの新書『学問のヒント』(講談社現代新書)について 書いた。
 今日送られてきた日垣氏の有料電子雑誌「ガッキィファイター」は、 上記の本で私が書いた文章を引用して、こんな感想を書いている。
 <嗚呼、引用するだけで恥ずかしい。それにしても、 この本を書いてから、もう8年も経ってしまったのだなあと感慨深いものがあ ります>
 あの日垣氏を恥ずかしがらせたのは、 私が“恋文”を書いたからにほかならない。文章を書く行為にはどこか過激な ニオイがする。
 ちなみに、日垣氏の『「松代大本営」の真実』(講談社現代新書)の 巻末に置かれた<文献資料案内>には、私がかつて書いた記事が <「松代大本営」を考察する上で必要不可欠な文献資料>の1つとして 載っている。
 日垣氏が国仲涼子ちゃんだったら(←ありえない)、 「私の文章をお気に召しましたか」とか何とか 言って近づくのになぁ。
 

今日も届いた沖縄からの年賀状が……(2005年2月12日)
 2月中旬に沖縄から年賀状が届いた。差出人は加古さんだ。 本土からの移住者であり、しゃかりやよなは徹さんが所属する 「かふうエンタテインメント」の経営者である。拙著『沖縄に恋する』に 登場してくれた人でもある。
   この時期に年賀状を送ってきたということは、 加古さんも「うちなー正月」を大事にしているのかもしれない。
 ここでふと思った。この時期なら年賀状のお年玉の当選番号が すでに判明しているから、私なら出す前に当選の有無を調べるなぁ、と。 私なら外れた年賀状だけを使う。
 期待せずに番号を照合してみたところ、な、な、何と 3等(地域の特産品小包1個)が当たっているではないか! 年賀状で 4等(切手シート)より上が当たるのは41年の人生で初めてだ。私が何をした わけでもないが、快挙である。
 3等が当たって喜びつつも、私は自分のみみっちさが恥ずかしくなった。

愛郷心(2005年2月11日)
 東京・新宿のヨドバシカメラ2階にジャストシステムの浮川和宣社長が いた。「一太郎2005」の発売日なのだった。ちょうど松下電器と訴訟合戦に なっているだけに、売れてほしい。
 なぜか? それは私が徳島出身者であり、ジャストシステムが徳島市に本社を置く 企業であるからだ。つまり、愛郷心である。
 愛郷心は、古里から離れたほうが見えやすいし、 古里を客観的に見る目を養いやすい。
 沖縄の若者は沖縄から離れたがらないと一般的に言われる。 であるならば、なおさら1回は離れてみたほうがいい。
 「他を見て己を知る」と駿台予備学校の現代文担当の名講師・藤田修一師は かつて語ったものだ。離れたほうがよく見えるのは間違いない。
 主観に客観を加えた目で古里を見て芽生える愛郷心には、それなりの普遍性が 期待できる。

沖縄から年賀状がまたまた届いた(2005年2月8日)
 那覇市在住の泰山さんから年賀状が届いた。泰山さんは 毎年うちなー正月に年賀状を送ってくる。ということは、 今が旧正月なのか。
 封筒に入っていた薄緑色の紙には<うちなー正月でーびる> という大きな文字が記されていた。
 そうなのか。今が旧正月なのか。ということは、 これからも沖縄から年賀状が届く?

小学生の宿題(2005年2月7日)
 小学6年の長女が先生から宿題を言い渡された。 「米国かタイ、ブラジル、中国、韓国の中から1国を選び、 その国と日本の交流について調べる」という内容である。
 日本との交流について? うーむ。課題が大きすぎる。難しすぎやしないか。
 もちろん、報告書などの文書を書く訓練を積むことには意味がある。 調べたことを文書で報告するという作業は大学生や社会人には必須である。
 しかし、大学生や社会人であっても、手順を知らなければこの作業は難しい。 ましてや今回は小学6年の子供である。結局は個人電算機(パソコン) で電脳的世界(インターネット)を適当に検索したり百科事典や資料から適当に 引用したりして形だけ整えておしまいになる恐れが大きい。
 事実、長女は資料を丸写ししている。宿題用紙に長女が書いた言葉について 質問してみたところ、やはり理解できていない。理解できないまま転記している。
 丸写しするくらいなら、資料を複写して、それを切り抜いて 張りつけたほうがよほどきれいだ。しかも、幼稚園児でもできる作業だから、 簡単に一丁上がりである。
 いいのかそれで。形だけ完成させても、重要な手順を 踏んでいないから、この過程で子供が学ぶことは皆無に近い。
  何について書くか、課題を絞る→どんな資料があるか探す→資料を調べる→理解する→どれを 書くか選択する→選択したものを使ってどのように書くか考える→書く、という手順を 具体的に教師が教えていれば、子供たちは宿題を通して実践的な技術を体得できるのに。
 「全部消しゴムで消しなさい」と私に命じられた長女は涙をためて全部消し、 『琉球新報』や『歩く・みる・考える沖縄』(沖縄時事出版)などを読み、 ようやく「沖縄の米軍」について仕上げたのは午後11時前だった。
 本人は満足そうな表情をしている。

サンタ姐さんに会う(2005年2月6日)
 人気抜群のサンタホテルズ(サンタクルスとサンタフェ)を沖縄市で経営している サンタ姐さんが東京にやって来たので、私は駆けつけた。
 約2年ぶりに会い、話をしているうちに、 Qちゃんの愛称で知られるマラソンの高橋尚子選手の顔と 姐さんの顔が重なってみえた。見れば見るほどそっくりである。 突然走り出してしまうのではないかと思ってしまうくらい 似ている。
 思うに、私の友人であり沖縄王の仲間でもあるビーンさんは 米国の俳優ジョージ・クルーニーに似ているし、清美ちゃんは南沙織に似ている (声はアグネス・チャン似)。そうそうたる顔ぶれだなぁ。
 私は野比のび太に似ているらしい(涙)。

佐敷町(2005年2月5日)
 NHKの衛星放送第2の「放課後テレビ」は 佐敷町の砂糖堂(シュガーホール)での収録だった。 町内の子供たちが自慢の芸を披露する番組である。 子供が主役だから、かわいいといえばかわいい。
 加藤茶さんと神野美伽さんが町内を歩き、 サトウキビを味わったり三線を弾いてみたりという 映像も流れた。この辺りは同じNHKの「家族に乾杯」に似ているけれど、 「家族に乾杯」ほどの手間はかけていない。
 私が見た限りでは、盛り上がりを欠いたまま番組は終わった。 加藤茶さんのような芸能人が出演することを除くと、ほとんど 地域ケーブルテレビの番組と同じ程度と言わざるを得ない。
 加藤茶さんが番組の最後にテレビカメラに向かって 「もっといい番組作れよ!」と声をかけてくれないかなぁ。

今日も沖縄から年賀状が(2005年2月5日)
 もしかして旧正月はこれからなのか。今日も 沖縄から年賀状が届いた。
 差出人を見て、またまた驚いた。私からこの人には 10年くらい年賀状を出してきた。しかし、 相手から年賀状が来たのはこれが初めてだ。
 差出人は『沖縄ソウル』などの著書でも知られる 沖縄の写真家・石川真生さんである。 真生さんから年賀状が来るとは考えたこともなかった。 さすがである(何が「さすが」か私も分からんが)。
 真生さんの年賀状が最遅の記録を更新した。これ以上 遅い年賀状はあるまい。

佐敷町の友人から届いた年賀状(2005年2月3日)
 佐敷町在住の友人・稲嶺さん(知事の稲嶺さんではない)から 年賀状が届いた。
 本土の正月もうちなー正月もとっくに過ぎた 2月1日の消印である。ここまで遅いと愉快である。
 私の41年の人生の中で最遅記録として記憶されるであろう。

国民を勝手に代表して(2005年1月31日)
 午後10時過ぎ、私の携帯に電子手紙が届いた。 沖縄市でサンタホテルズを経営しているサンタ姐さんからである。
 <大変だぁー! スマスマに涼子ちゃん登場してますよー>という文面を見て、 慌ててテレビをつけた。すると、ああ、涼子ちゃんがいるではないか。
 動きや仕草に素人さが今も残っている辺りが国仲涼子ちゃんの魅力である。 いや、反対に玄人らしい動きや仕草であったとしても、 それもまた涼子ちゃんの魅力であると私は書くはずだから、 要するにそんなこたぁどうでもいいのだ。 涼子ちゃんの存在自体が魅力なのである(お、殺し文句として使えるね、これ)。
 姐さんは<最近痩せすぎじゃありませんか。芸能界って大変なんでしょうね。 沖縄県民として心配です>と締めくくった。
 私は日本国民を代表して心配を表明する。
 確かに芸能界は大変なことがあると聞く。
 毎日新聞政治部にいた先輩記者が政治家取材で東京都内の ホテルの出入り口周辺に他社の記者と待機していたときの話である。 芸能界関係者とおぼしき男が若い女性に対して、 「芸能界で成功するためには権限を持つ者に抱かれるのは仕方ない。 ○○○号室に行くように」という趣旨の説得をしていたのを見たそうだ。 同業他社の記者とともに「ウワサでは聞く話だが、本当にあるんだなぁ」と驚いたという。
 涼子ちゃんは公共放送であるNHKで“出世”できたから、阿呆の餌食になることは避けられたと思う。 それだけで十分幸運である。
 涼子ちゃんのますますの幸運を、私は国民を代表して祈るばかりである。

笑顔(2005年1月21日)
 私の国仲涼子ちゃんの記事が今日付の『毎日新聞』 夕刊6面に載っている。取材した大先輩記者にもう少し早く頼んでおけば、 この取材に同行できた可能性があったと思うと、残念無念というしかない。
 いいなぁ、羨ましいなぁ、エリィに会いたかったなぁ、などと 思いながら記事を何度も何度も読む。
 穴が開く一歩手前まで写真を見続ける。そこで、はたと思い至った。 エリィ涼子ちゃんの笑顔の写真は相変わらず魅力的なのだが、 この笑顔は恋人に向けての笑顔ではない、と。
 恋愛中の若い女性がその対象である男性に向ける 笑顔ほど見事なものはない(西野説)。自然に笑顔が浮かび、 しかも、その笑顔ははじけている。傍で見ている私まで 嬉しくなってしまう。飛びっ切りの笑顔を女性は大好きな男性にだけ 向けるのである。
 しかるに、である。紙面上の国仲エリィちゃんの笑顔 (網谷記者に向けたものと思われる)は、そういう笑顔ではない。
 そう。国仲涼子ちゃんは私と出会う時のために、私のために、 その飛びっ切りの笑顔を取って置いてくれているのである。

真っ当な沖縄好き人間(2005年1月20日)
 パウエル米国務長官に酷似する友人・立石(徳島で 「マンダラネット」という接続会社を経営している)から 私の携帯電話に電子手紙が届いた。
 <2月にまた沖縄に行きます。プロバイダ協会の会議を 再度、西武オリオンホテルですることになりました>
 <なりました>と、まるで他人事のように書いてあるが、 わざわざ全国から沖縄に集合するのは、ほかでもない、 立石が沖縄を大好きだからである。仕事にかこつけて 沖縄に行こうという魂胆である。立石が決めたに違いない。
 <取り急ぎ、ご報告まで>
 「今から最高に素晴らしい女と楽しく過ごします」や「今夜は 最上の松坂牛を食います」などと報告されるのと同じで、 報告を受けた側はただただ羨ましい。
 そういえば、元日銀那覇支店長が 自分の力で沖縄に何かの国際会議を招集したとか開催したとかいう趣旨の 自慢話をさりげなくしていたっけ。確か『琉球新報』で読んだ記憶がある。 いちいち恩着せがましい小役人風情だなぁと呆れてしまった 記憶もある。
 立石はそんな恩着せがましいことは言わないし、 そういう考え方自体していない。真っ当な沖縄好き人間とはこういう人を言う。

バリー・ホワイト(2005年1月17日)
 バリー・ホワイトが残した名曲「ユー・アー・マイ・ファースト、 マイ・ラスト、マイ・エブリシング」を 聴きながら踊るのが日課になっている。米国のテレビ番組 「アリー・マクビール」(邦名は「アリー・マイ・ラブ」)で 多用されて、再び脚光を集めた曲である。
 西原町の狭い部屋で晩飯を食いながらパソコンで「アリーマイラブ」を 見ていた時期があり、その懐かしさも手伝って最近よく 聴くようになった(ついでに踊るようになったのは大きな進歩である)。
 踊りながら、思った。エブリシングは単数形だなぁ、と。 これは試験でたまに訊かれることがあった。例えば、
Everything(is,are)nice.
Nothing (is,are)fine.
Anybody (has,have)this book.
 で、どっちか選べというやつね。
 よくよく考えたら(よくよく考えなければ思い至らなかったところが 私の限界ではあるが)、複数形ならthingsやbodiesになって いるはずである。でも、そうなっていない。ということは単数として 扱えばいい。外形を見て判断すればいいだけだ。
 私にとっては大発見なのだが、 実はこのことに気づいていなかったのは私だけだったりするおそれがあるので、 大きな声では言わない。

『使える新書 21世紀の論点編』(2005年1月13日)
 WAVE出版から契約書が届いた。少しだけ執筆を担当した 『使える新書 21世紀の論点編』の契約書である。
 私が担当したのは「ジャーナリズムの終わりと始まり」という 14ページ分である。前文では沖縄の米軍基地問題についての報道に疑問を 投げかけ(私がずっと展開している持論ね)、 そのあとで5冊の新書を紹介した。沖縄関係の新書としては、 『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕』(石原昌家・集英社新書)を 挙げた。沖縄戦は沖縄に流れる通奏低音という私の説に則ると、 沖縄戦に関する新書なら普遍性をもって受け止められると 考えたのである。
 このほか、『新聞記者で死にたい』(牧太郎・中公新書)や 『学問のヒント』(日垣隆・講談社現代新書)を挙げた。 おふたりとも私が尊敬するジャーナリストであり、それだけに 私が論評すること自体僭越に過ぎると思わないではないが、 そんなことを言っていたら何も取り上げられないので、恐縮しつつ 書いた(何のこっちゃ)。
 また、私が“苦手”とする飛行機関連では 『日本航空事故処理担当』(山本善明・講談社+α新書)と『目撃 アメリカ崩壊』 (青木冨貴子・文春新書)を挙げた。
 こうして俯瞰すると、ジャーナリズムは「組織力」ではなく、 記者や書き手個人の持つ情熱次第だなぁとあらためて思う。

印(2005年1月7日)
 携帯電話用の紐を修理して、再び携帯につないだ。
 那覇市の国際通り沿いにある民芸品店で数年前に買った携帯用の紐で、 ミンサー織の模様が気に入っていた。
 この紐が神奈川県の新横浜駅前の本屋の中で数ヵ月前に千切れて以降 ほったらかしにしていた。新しい紐を買おうかとも思ったが、 なかなか手ごろな携帯用紐がないし、ミンサー織の模様は手離し難い。
 そこで、千切れた紐をつないで復旧した。これでまた 胸の辺りにミンサー織の模様を垂らすことができる。
 分かる人には分かる「沖縄好き」の印である。

恋愛の要素(2005年1月4日)
 出会わなければ始まらない。
 というわけで、私の『サンデー毎日』時代の大先輩記者に 年賀状を書いた際、「国仲涼子ちゃんの取材があれば、 ぜひ私を連れていってください」とお願いしておいた。 この大先輩記者は、女優さんを取材して記事を書いているから、 そのうち国仲涼子ちゃんを取材することがあるに違いないと踏んだのだ。 われながら名案であった。
 その返事の年賀状が今日届いた。何と年末に70分も1対1で取材したというのである。 楽しかったというのである。
 嗚呼遅かった。
 しかし、である。恋愛の要素の1つに「すれ違い」がある。 古くは「君の名は」から最近の「ちゅらさん」に至るまで、 恋愛番組の定番要素の1つが「すれ違い」であることは間違いない。 つまり、今回の私と涼子ちゃんの「すれ違い」も、あとで 盛り上がるための1段階に過ぎない。
 こう思えば、「すれ違い」なんぞ屁でもない。

2004年(2004年12月31日)
 今日付の『産経新聞』神奈川版<わたしの五大ニュース>掲載の 私に関する記事を載せておく。
(1)3冊目の著書、沖縄移住者に関するノンフィクション『沖縄に恋する』 (WAVE出版)を出版(2)私が運営しているサイト「沖縄王」のアクセス数が40万件突破 (3)沖縄戦下で新聞を発行していた記者で戦後、平和運動に尽くした牧港篤三さんが死去。 おつき合いの中で記者のあるべき姿を学んだ。忘れまい (4)援助交際のニュースが報じられるたびに、小学生の娘2人に 「お金で体を売るのは人生最大の間違いだ」などと教え続けた1年。 性教育は父親の仕事である(5)小6の長女に無理を言って一緒に入浴。 これが最後のお風呂になった。父親にとって娘は“永遠の片思い”の相手

 同じ今日付の『毎日新聞』の<2004年レクイエム>に牧港先生が 載っている。肩書きは<沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会代表>だった。
 同じ面に、又野誠治さんと下川辰平さんも載っていた。ともに俳優で、 「太陽にほえろ!」の主要出演者である。思えば、下川さん演じる「長さん」 の物語から“仕事に対する姿勢”を学んだなぁ。
 学んだのはいいが、それを十分に生かしているだろうかと ふと振り返る大晦日である。

石垣島からの電話(2004年12月26日)
 友人の入江さんから私の携帯に電話が かかってきた。小浜島内で働いていたのだが、 石垣島に移ったという連絡である。
 「小浜島から石垣島に引っ越して、ずいぶん 便利になりました。石垣にはスーパーがあるんですから」
 「孤島に1つだけ持っていくとしたら何を選ぶか」という問いかけを 思い出した。退屈をしのぐために何を持って行くか。ここに その人の価値観が表れるという話である。 私なら個人用電算機と答える。ただし、 電話線と電線が用意されている孤島という条件つきだが(そんな孤島が あるのか?)。

沖縄王“来客数”40万突破(2004年12月21日)
 いつの間にか、である。
 これもひとえに沖縄王の立ち上げから今日まで関わって くれた仲間(由紀恵さんではありません)のお陰である。 関わってくれた人たちがいたからこそ、ここまで来たし、 続いているのだから、一番目に感謝すべきは仲間である。 でもって2番目が“お客様”ね。
 とはいえ、40万の実感は湧かない。仮想空間だからだろう。

暦を買う(2004年12月10日)
 東京・銀座の「わしたショップ」地下1階には、 いろいろな暦が展示されている。その中で、大きな写真付きの 大きな暦が目に入った。
 いいなぁ、これ。10秒迷って購入した。 1200円である。1ヵ月あたり100円は妥当な価格だと判断した。 日本トランスオーシャン航空の暦である。
 県外の沖縄好きを引きつける写真だ。構図に迫力がある。
 私が生粋の暦を買うのはこれが初めてである。 高校時代に「太陽にほえろ! ポスターカレンダー」を買い続けたことがあるけれど、 あれはボスやゴリさん、長さんたちの大型写真が中心で、暦は実に小さかった。

消えた電子手紙友達(涙)(2004年12月1日)
 年末である。今年もいろいろな出会いがあったなぁと 回顧していて、ふと思い出した女性がいる。
 私が数年前に登録した「ご近所さんを探せ」(沖縄県内版に今も登録してある)を 見たという40代の女性から9月23日に電子手紙が届いた。私は25日に送った 2通目の電子手紙でこの沖縄王を紹介するとともに私の名前などを 明かした。
 以来返事がない。その女性の「ご近所さん」登録情報を 確認してみたところ、10月19日に登録が削除されている、 という画面が出てきた。
 沖縄王を見て恐れをなしたのか。私の顔写真を見て、 好みではないと思ったのか。なぜだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?

沖縄で風邪を引いた道産子(2004年11月27日)
 北海道で酪農をしているヤマさん(私の電子手紙友達)から電子手紙が届いた。 修学旅行で沖縄に行った娘さんが風邪を引いて帰ってきたという。 沖縄で冷房にあたりすぎたのが原因らしい。
 そういえば、熱射病で病院にかつぎこまれる修学旅行生も いると聞く。
 「南国だ極楽だ天国だ」という印象が先行する沖縄ではあるが、 意外なところに落とし穴がある、ようである。

美ら島きっぷ(2004年11月20日)
 パウエル米国務長官に酷似する友人・立石が沖縄から 電話をかけてきた。これで今年3回目の沖縄だそうな。
 今回は一応仕事ではあるものの、日本トランスオーシャン航空の 「美ら島ちけっと」を使って離島を回ったと言う。沖縄本島と 石垣島、宮古島、久米島、与那国島の各路線に計5回乗ることができ、 計3万5000円で上がるというきっぷを活用したわけだ。
 確かに金額面では悪くないきっぷである。しかし、 5回乗ることができるということは離着陸を10回経験できるわけで、 飛行機が苦手な私には拷問に近い。
 このような私はそんなきっぷを使いたくもない、かというと そうではない。沖縄本島の西に広がる海の美しさに空の上から 見とれたことがあるので、 飛行機が絶対に死んでも落ちないという保障さえあれば 何度でも乗る用意はあるのである。

ハワイのみなさん、アロハ!(2004年11月12日)
 ハワイで無料配布されている新聞『ジャパニーズビーチプレス』 読者のみなさん、こんにちは。私が「HIROKOの楽がき」(11月5-18日号) で紹介されている西野です。
 この「HROKOの楽がき」の筆者・秦ヒロコさんに出会ったのは、 真珠湾攻撃50周年にあたる1991年の秋、 ハワイに取材に行った時だった。 当時私は毎日新聞福島支局の記者で、 福島からハワイに戦前移住した人たちの足跡をたどる連載の 取材に出向いたのだ。そこで出会ったのが秦さんである。 以来こんにちまで年賀状などのやり取りが続いている。
 秦さんに私の新著『沖縄に恋する』をお送りしたところ、 「沖縄大好き」という見出しをつけてを紹介してくれた。 沖縄の話にも言及しているので、少し引用しよう。
 <ここハワイに住む沖縄県人も今は三世、四世の時代。 1900年1月16日、沖縄初回移民26名が砂糖キビ耕地労働者として 入植したのが何と「エワ耕地」だった>。筆者の秦さんは、 このエワに36年暮らしている。私は秦さんの案内でエワを 回ったことがある。私が見た限りをひとことで言えば 沖縄本島北部のような場所と雰囲気だった。
 <沖縄県民の結束力は他県民より強いと思う>。ハワイ 取材でお世話になった福島県人会会長のスタンレー佐藤さんも 同じ趣旨のことを言っていた。「沖縄県人会は2世も3世もまとまっている。 ほかの県人会の場合、2世以下は自分はアメリカ人だという意識で育つから、 県人会に参加しなくなる。だからほとんどの県人会は高齢化して先細りなのに、 沖縄県人会だけはそうなっていない。どうしてなんだろうね」と 少し羨ましそうに私に語っていた。
 秦さんの記事によると、9月4、5日にカピオラニ公園で 沖縄フェスティバルが開かれている。開催回数は22回を数える。 22回も続けて来られたのは、今風の表現をするなら「オキナワのチカラ」と 言っていいかもしれない。

琉(2004年11月11日)
 本土で「琉」の文字を用いた子供の名前を ちらほら見かけるようになった。聞いてみると、 沖縄好きだったりする。
 人名に使える漢字は法律で決められている。 「琉」の文字が戸籍法施行規則の附則の 人名用漢字表に追加されたのは1997年12月3日で、 それまでは「琉」を名前に使えなかった。
 89年12月に私に第一子が誕生した際、 「琉」を使いたいと思ったものの漢字表にないので 残念に思いつつ「琉一」の名を諦めた記憶がある。 私のように「琉」を諦めた親御さんは少なくないのではないか。
 これが人名漢字表に加えられたのは那覇市在住の夫婦の奮闘のお陰である。 「琉」の文字を使った子供の名前が那覇市役所に受理されなかったことから、 97年に那覇家裁に不服申し立てをし、その結果こんな大きな成果を 引き出したのだ。
 当時那覇家裁の審判についての新聞記事を読んで「その手があったか」と 感心した記憶がある。
 日本で最初に「琉」を使った名前を持つおチビちゃんは 小学1年くらいになっているはずである。

トウマ医師(2004年11月10日)
 どう見ても沖縄と関係のありそうな「トウマ」という 苗字の医師が、お金を払って大勢の女子高生にワイセツ 行為をしていたとして逮捕された。
 この報道をNHKで見ながら、私は小学6年と4年の娘たちに 「お金をもらって体を売るのは売春だからね。絶対にしては いかん」と力説する。「友達がやっていたとしても、君たちはしてはいかん。 友達から誘われても、やってはいかん。売春は売春だからね。 絶対に許さんぞ」などと必死に説明する。
 高校生ごときが売春をする、そんな時代なのだ。 自分の子供に限って、というのは安易に過ぎる。 だとすれば、原則を教え込むのは最低限のしつけである。 子供の心に染み込むかどうかは、まずは 親が必死になって全力で語るかどうかにかかっている。
 と書くと、「売春婦を軽視している」や 「売春婦差別だ」と叫ぶ脳タリンが出てくるものだ。 そういう人は自分の娘を売春婦にすればいいだけの話である。

平塚市立江陽中の文化祭でエイサー(2004年11月2日)
 神奈川県平塚市立江陽中の文化祭が開かれ、 その前座として3年生有志がエイサーを披露した。
 この前座は生徒会主催の行事で、 過去2年続けて「よさこいソーラン節」だった。 ネコも杓子も「よさこいソーラン節」の安易さに 気づくべきである。
 だからというわけではないが、県立那覇病院生まれの私の長男が 「今年はエイサーをしたい」と声を上げ、学校などの 協力を得て、エイサーが実現した。
 日出克「ミルクムナリ」の音楽にあわせ、 琉球国祭り太鼓関東支部のみなさんから直伝された振り付けで、 沖縄観光コンベンションビューローから借りたパーランクーと 学校がわざわざ購入した大太鼓を用いて勇壮に演舞した。
 エイサーを踊った生徒たちは、♪同じ阿呆なら踊らにゃソンソン♪を 実感したに違いない。

沖縄を見るということ(2004年10月19日)
 今日付の『毎日新聞』の「記者の目」は<米軍再編> <沖縄と向き合う覚悟を>などの見出しで、那覇支局の 松藤幸之輔記者が書いている。その中で私が注目した部分がある。
 <基地の存在が沖縄を発展させた面は否定しない。最近は、 生まれた時から既に基地があった若者を中心に現状追認の空気も 強い。沖縄は「反基地」では、まとまりにくくなったのではないか。現状を 見るとそんな思いに駆り立てられる>
 沖縄県民が全員基地撤去を叫んでいるかのような 錯覚をさせうるウソ報道に私はうんざりしていた。 ウソつくなという思いで、沖縄の現状を『新潮45』2003年1月号に 書いたのだった。というわけで、現状を直視しようとするこの記事を 少しだけ評価したい。
 ただ、極端に少なく見ても1万人以上の県民が米軍基地関連の仕事で 生活している(=生きている)現実を挙げておくべきだった。 沖縄の基地問題の基本論点の1つはこの現実にあるというのに。
 沖縄の米軍基地報道は、全国紙も地元紙も軍事的・政治的な報道が 今も大半を占める。基地で生活している「人」になぜ寄り添わないのか。 見えていないのか。沖縄の基地問題に関係ないとでも思っているのか。 あるいは記者自身の信条に反する立場の人たちだから無視していいと 思っているのか。それとも、もしかして全然取材していなかったりしてね。

サンタ姐さんが「新聞広告コンテスト」コピー賞を受賞?(2004年10月15日)
 沖縄市で「サンタ・フェ」と「サンタ・クルス」を経営する サンタ姐さんから喜びの電子手紙が届いた。 <思わぬところで広告されちゃいました> <勝手に喜んでます♪ すばらしぃ〜!>
 今日付の『琉球新報』18面に「新聞広告コンテスト コピー賞」 受賞作品が掲載されており、それが<サンタフェと聞くと、 今もドキドキする。>なのである。
 この表現は姐さん経営の 「サンタ・フェ」にぴったりだ。 「サンタ・フェ」で愛を育んだ恋人同士なら、 当時を懐かしんで首肯するに違いない。
 出版当時大きな衝撃を与えた写真集『サンタフェ』と 沖縄市のホテル「サンタ・フェ」の両方を知っている人しか ニンマリできない、希少価値のある(あるのか?)お話しでした。
 ちなみに私の場合、写真集は友人の河北新報記者が買い、 福島県警の記者クラブで見せてもらった 記憶がある。ホテルのほうの記憶は……ナイショである。

くびさと(2004年10月14日)
 沖縄王の仲間である清美ちゃんから電子手紙が来た。 <「政治色の強い」と変換するつもりが、 「性辞職」となって大笑いっつーのがありました>
 性辞職で思い出すのは、「明鏡止水の心境でございます」の言葉とともに 首相を辞任した宇野さんである。
 このように、文字変換は時々笑わせてくれる。しかし、この 文字変換に関して納得のいかないことがある。 東芝のワープロ「ルポ」もマイクロソフトの日本語入力支援機能である IME(「一般」で設定)も「首里」が出ないのだ。「南風原」は一発で変換するのに。 「南風原」よりも「首里」のほうが利用頻度ははるかに高いと思うが。
 IMEの場合、「一般」で設定している限り、「しゅり」と入力すると「修理」が出てくる。 「う」を勝手に加えるな!
 IMEをいちいち「一般」から「人名/地名」に切り替えるのは面倒だから、 私の場合「首里」を出すために「くびさと」と打って変換するか、 「しゅりじょう」と打ってから「城」を削っている。 「首里」は出ないのに「首里城」は出る。何でだ?
 なお、ウインドウズXPに標準装備されているIMEを「話し言葉」に 設定して「ぎれ」と入力すると「ピカチュウ」と出てくることは あまり知られていない。別に知らなくていいのだが。

『産経新聞』神奈川県版をご覧のみなさま、こんにちは(2004年9月30日)
 今日付の『産経新聞』神奈川県版の「人」欄に登場している私に関する 記事を読んで、この沖縄王を初めてご覧になったみなさま、沖縄王にようこそ。 私西野です。
 ご覧になっていない みなさまは、こちらをどうぞ。産経新聞社提供の 神奈川県版の記事です。

首里城に行ったことがある県民はどれくらいいるのだろう(2004年9月20日)
 沖縄王の仲間である清美ちゃん一家が東京旅行を終えて 沖縄に帰った。神奈川県に“長期出張中”の私としては 東京で少しでも会えるかなと思ったのだが、 清美ちゃんは朝から晩まで予定がぎっしりで、会う間がなかった。 ま、私が沖縄に帰った時に会えばいいさね。
 清美ちゃん一家は、千葉ディズニーランドや六本木ヒルズ、お台場などを 回った。神奈川県に住んでいる私がまだ行ったことがない六本木ヒルズに 清美ちゃんは行ったのである。
 しかし、清美ちゃんがまだ行ったことがない首里城に 私は行ったことがある。自慢するほどの話ではない。 無料開放した時に1回行ったに過ぎない。2回も行く場所ではない。
 首里城に行ったことがある県民は少ないのではないか。 あんなところにお金を払ってまで入ろうとするのは観光客くらいだろう。 私の友人や知人で沖縄旅行に来た人が首里城に行きたがる場合、 私はいつもこう説明していた。「ああ、いいところですよ。 現代建築の粋を集めて造られた建物ですからね」

「沖縄情報IMA」管理人さんからの電子手紙(2004年9月7日)
 米軍ヘリコプター墜落事故に関するページ(http://www.okinawainfo.net/futenma-us.htm)を 作ったという電子手紙をもらった。
 この管理人さんは「ないちゃー小林」と名乗っておられるので 本土出身者のようである。私は全く面識がない。
 「沖縄王様」とか「西野様」とか何か冒頭に記すのは、私からすれば 常識というか礼儀の「れ」以前の話と思うが、そういう宛名が全くない。 一斉送信で送ってきた可能性がある。
 う〜む。
 礼儀の件はさておくとして、本来は蔑視の意味がある 「ないちゃー」という単語を使うのもまぁいいとして、 せっかく(でもないよなぁ)送ってきてくれたので、 ここに紹介しておこう。掲載写真はなかなか 迫力があってよろしい。
 ここで慌てて付け加えておくと、私は「米軍基地撤去」を主張していない。 基地で働いて生計を維持している県民やその家族が存在する以上、 その人たちを路頭に迷わせることになる主張をする資格も権利も 私にはないからである。
 こういうことは主張適格のある人が主張すればよろしい。 主張適格のない私があれこれ言うのは無責任極まる。
 しかし、基地がなくなった後の基地従業員の生計の道を 誰か考えているのだろうか。青写真の1つくらい あってもよさそうなものなのになぁ。もしかして 誰も考えていなかったりしてね。「私は仕事を持っているから、 基地従業員が失業しても私は痛くもかゆくもないもんね」な〜んて 思っていたりしてね。

国仲涼子ちゃんと再び“大接近”(2004年9月5日)
 『サンデー毎日』9月19日号の書評欄「読みどき旬どき」に 『沖恋』が紹介された。この『サンデー』の表紙が、 ああやっぱり! 我が国仲涼子ちゃんなのである。
 涼子ちゃんは自分の写真が載ったこの『サンデー』を ぱらぱらと見るに違いない。すると、どうだろう。 『沖縄に恋する』の書評が目に入るのは間違いない。
 あれ、このステキな本の名前、どこかで見たことがある。 あ、そうだ、日本トランスオーシャン航空の機内誌 『コーラルウエイ』に掲載されていた本だわ。 これで2度目よね。ご縁があるみたい。 この筆者の西野さんてステキな人なんだろうなぁ。 会ってみたいなぁ。インターネットで検索してみようかな。 もしかしたらメールアドレスが分かるかもしれない。
 (涼子ちゃんはパソコンに向かう)
 あった。ナニナニ? 沖縄王ですって。うふふ。 変酋長だなんて、面白そうなかたね。メールを書いちゃおうかなぁ。 でも突然だと信用してもらえないかなぁ。でもまずは西野さんと お友達から始めたいなぁ。
 以上、涼子ちゃんの心情の推測でした。

沖縄に関する誇張(2004年8月30日)
 米軍ヘリコプター墜落事件に関して、今日付の『毎日新聞』夕刊2面で 作家の伊佐千尋さんがこんなことを語っている。
 <悲惨な沖縄戦の体験から、県民は戦争にかかわりあることは理屈抜きに 一切反対なのだ>
 <県民は一切反対>と断言しているが、県民全員から話を聞いたのだろうか。
 私の周囲には米軍基地を積極的に賛成している人がちらほらいる。 そういう人たちの存在を伊佐氏は知っているのか知らないのか 私は知らない。ただ、自分の希望と現実の峻別が出来ていないこと だけは確かである。
 書き手であるなら、こういう誇張はもういい加減にやめませんか。

読書感想文の書かせ方(2004年8月29日)
 自分の子供たちには夏休みの読書感想文を毎年 書かせている。この夏、小学6年と4年の娘たちに 私がそれぞれ指定したのは『いのちの重さ伝えたい 沖縄戦1フィート運動と 中村文子のあゆみ』(真鍋和子・講談社)と 『白旗の少女』(比嘉富子・講談社)である。
 通常、読んでから書き上げるまでに1ヵ月ほどかかる。 単に本を読むだけではなく、関連資料を調べさせ、 時間がある時は現地に連れて行く。筆者に会わせることもあった。 自分の脳で咀嚼して感想文を書けるようになるには、 それなりの手間と時間と取材が必要なのである。 というか、真っ当な新聞記者なら誰でもやっている 手法を子供の読書感想文に取り入れたに過ぎない。
 もちろん私は指導はする。しかし、直接的な指導はしない。 私が文案を口にしたが最後、その表現が子供の脳に焼き付いてしまって、 引っ張られる(つまり、よく似た表現を感想文で使ってしまう)のは 目に見えているからである。この怖さは記者ならたいていは経験があるはずで、 たまに盗作事件が起きる原因の1つだと私はにらんでいる。
 感想文で何かの賞を狙うという意図は全くない。狙うのは 簡単だが、そうすると文章が1つの型にはまってしまう。 それでは文章を書くための手法の勉強にならない。
 感想文という枠から大きくはみ出してもいい。 感想文という枠に縛るのではなく、 将来実戦で役立つ手法を身につければいいのだ。
 この夏は沖縄に帰れなかったので(涙)、 慰霊の日を報じる『琉球新報』や1フィート映画『沖縄戦・未来への証言』、 私が撮った写真などを娘たちは見た。むろん大前提として365日の 地道な積み重ねがある。そんなこんなの集大成が年に1回、夏休みの読書感想文なのである。
 明日から2学期が始まるという追い詰められた状況で、 長女は午前0時ごろ、二女は午前1時半ごろようやく書き終えた。
 あとで数えてみたところ、この1ヵ月間に2人合わせて400字詰原稿用紙を 計60枚使っていた。

平塚駅前のドトールで・その2(2004年8月22日)
 神奈川県平塚市の駅前にあるドドールコーヒーの店で、 中年女性2人組が三線を習っている話をしていた。 そのうち、「ヘリコプターが沖縄大に落ちたわよねぇ」という話題に 一瞬だけ転じた。沖縄が好きで三線を始め、沖縄のことならとりあえず 何でも反応するようになった、という感じである。
 昨今の沖縄熱のいい面はここにある。三線でも国仲涼子ちゃんでもゴーヤーでも、 どんな入り口でもいいから沖縄に興味を持てば、その先にある沖縄戦と 米軍基地が見えてくる(はずである)。
 だから、どこの大学に墜落したかというのはこの際さほど重要ではない。 と思いつつも、せっかくだから「違いますよ。沖縄国際大ですよ」と 訂正してあげればよかったかな(←これも怪しすぎる)。

平塚駅前のドトールで(2004年8月21日)
 神奈川県平塚市の駅前にあるドドールコーヒーの店で、 会社員風の中年男性2人組がこんな会話を交わしていた。
 「瀬底や万座を回ったんだけどね。魚がいなかった。2年前に 行った時とずいぶんイメージが違った。岸辺の防波堤のところには ハリセンボンがうじょうじょいたしね。離島は違うのかも 知れんが」「沖縄でなくても、グアムなら3時間で行ける」
 沖縄よりグアムがいいぞという流れになっていった。 断片的に聞いただけだから詳細は分からないが、 どうやら潜水を趣味にしている人たちのようだ。
 沖縄の海は危機なのか? たまたま魚との巡り合わせが よくなかっただけなのか?
 その場で私が「沖縄を見捨てないでね」と 訴えたほうがよかったかな(←それは怪しすぎる)。

かりゆし県民服(2004年8月16日)
 産経新聞・田中記者の取材を神奈川県平塚市内で受けた。
 私は桃色のかりゆし県民服を着用した。 田中記者は濃紺の落ち着いた色合いの県民服を着てやってきた。 かりゆし県民服を着た2人連れの光景は平塚市内では非常に珍しい。もしかしたら 平塚市の歴史上初めての快挙かもしれない。
 「先日沖縄に取材に行った際に買ったんです。仕事の時にも 着ていますよ。3着買いましたからね」
 3着も持っているのか。1着負けた。悔しいなぁ。 今度買い足さねば(←そういう問題か?)。

パソコンの前で阿波踊りを踊る(2004年8月12日)
 私の古里・徳島で今日から阿波踊りが始まった。
 NHKの午後7時のニュースの最後は徳島の阿波踊りの中継だった。 「ああ、踊りたい」。遠く離れた神奈川県平塚市で古里を思う。 ……というより、阿波踊りを思う。
 米国のパウエル国務長官に酷似する友人が徳島で 経営している接続業者「マンダラネット」のホームページで 阿波踊りを生中継していることを思い出した。 慌てて「マンダラネット」を見る。
 パソコンから阿波踊りの映像と音が飛び込んできた。 レレレのおじさんの格好で手にほうきを持って踊る 「レレレの連」が踊っている(笑い)。文理大の連も踊っている。 みんな踊れていいなぁ。
 「よしこの」を聞いているうちに手足が勝手に動き出す。♪踊る阿呆に見る阿呆、 同じ阿呆なら踊らにゃソンソン♪

小浜島からの絵葉書(2004年7月22日)
 小浜島で仕事を見つけ、本土から移り住んだばかりの わが友人・入江さんから絵葉書が届いた。
 絵葉書の「絵」は、NHKの「ちゅらさん」で知られる「和也君の木」の 写真である。おお、やっぱりこんな絵葉書が販売されているんだなぁ。
 入江さんの<ぜひ八重山諸島にも遊びに来てくださいね>という お誘いの言葉は、ありがたい。しかし、ちょっと(どころか、かなり) 遠いぞ。国仲涼子ちゃんとの新婚旅行の際にでも訪ねることに しよう。

女子高生のスカート丈が短い理由(2004年7月18日)
 沖縄の友人たちと一斉電子手紙のやり取りをしている。 那覇市在住の友人が憤怒のあまり、こんな文章を書いてきた。 <短か過ぎるスカートの 女子高生等を見るにつけ、イエローキャブ予備軍か、セーラー ムーン軍団にしか見えない>
 女子高生や若い女性が短いスカートを履いたり透け透けの 服装をするのは、それなりの理由がある。 知り合いの女子高3年の繭子ちゃんの説明によると「スカートの丈を 短くするのは、同性(つまり女性)を意識した 競争であって、男性の目は全然意識していない」。 女同士で張り合っているのだ。
 こわいですねー。でも、それでスカート丈が短くなっていくなら、 男性にとっては漁夫の利かもしれない(笑い)。何が「利」なのか 分からないが、得をした気分になるのは間違いない。ただ、 男性を挑発しようという意図がない点だけは知っておく必要がある。
 繭子ちゃんは学校の制服のスカートを短くして履いていた。 短くする方法を見せてもらって、私はのけぞった。 腰回りの部分を何回か折り曲げてスカートを引き上げて大腿部の 露出度を高めているのだ。確かにこの方法なら、スカートを履き替えずに 容易に丈を短く出来る。
 以上、世の中の男性の大勢が勘違いしていると思われる 「女子高生がスカート丈を短くする理由」について、 私が女子高生を代表してご説明申し上げる。

「オール・マイ・フォゥトゥ」のすごさ(2004年7月16日)
 横浜美術館で9月20日まで開かれる「ノンセクトラディカル 現代の写真V」の 開会式に行った。石川真生さんの写真が展示されているうえ、真生さんが 会場に来ているというので、写真と顔を見に行ったのである。
 真生さんは自分の写真が展示された場所にいた。 坊主頭の私を見て「どこの高校生かと思ったよ」と笑い、 「オール・マイ・フォゥトゥよ」と胸を張った。
 真生さんの写真を見て、気づいたことがある。 視点に偏りがない、とでも言おうか。「右の人」にも「左の人」にも 同じ目線で優しく接しているのだ。金太郎飴報道にうんざりしている 私には非常に新鮮に見える。
 このような視点と均衡を維持するのは容易ではない。 自分の脳が金太郎飴にならないよう気をつけたい。って、 どうやって気をつければいいんだ?

「ちか」さんからの電子手紙(2004年7月15日)
 「ちかです」という題名の電子手紙が届いた。 「ちか」って、与那原町の「ちか」さんかな?  これまで電子手紙のやりとりをしたことがないのに、 突然寄越したのはどういうことだ。 さっそく読んでみた。
 <毎日暑いですよね(+_+)
私はもうすでにバテ気味・・・
新しい水着買ったから早く海に行きた〜い
夏休みがある学生時が良かったなぁ
キャンプとか夏って楽しいよね>
 私が知っている「ちか」さんは 確か30代後半である。<新しい水着>で <海に行きた〜い>とはしゃぐ人ではない。 沖縄に住んでいるのに<キャンプとか夏って楽しいよね>と いうのも怪しい。私が知っている「ちか」さんは どちらかというと学究肌だ。にもかかわらず、この文章は 絵文字を含めてあまりにも幼稚な内容である。
 それに普通なら「西野さん、ご無沙汰しています」とか何とか 書くものだが、私の名前が1つも出ていない。ますます怪しい。
 不特定多数に機械的に配信して、 「女だ女!」と鼻の下を伸ばした男が ワナにかかるのを待っている様子がうかがえる。 ワナに引っかけたいならもっと上手なものをつくるべし。と 偉そうなことを言う私だが、「これはニセモノだ」と 気づくのに1分ほどかかったことを白状しておく。

私には書けない記事(2004年7月14日)
 『アエラ』7月19日号に<岐路に立つ1フィート運動 90歳事務局長の 粉骨>という記事が出た。1フィート運動の事務局といえば沖縄の私の古里のような ものである。本来ならば取り上げてくれてありがとう、と言うべきなのだろう。
 しかし、である。わずか1ページの記事を読んだだけで私は 一気に虫歯になってしまった。大甘なのだ、内容が。幼児期から 甘いものが大好きな私でさえ「これは甘すぎる」と思ってしまった。
 その理由を端的に言うと、 「ライター 芦澤礼子」さんの先入観と取材不足にある。 平和運動に対して“無謬性の神話”でもって 取材しているとしか思えない。このような大甘記事は 1フィート運動への一時的な募金を増やすかもしれないが、 1フィート運動が内在する問題の解決を先送りにする弊害を生み、 根本的な解決策の模索の着手につながらない。何の手助けもできていない 私が偉そうなことを言う資格はない。しかし、 『アエラ』の大甘記事を読むと、放っておけない。
 もちろん、経済的に他者に依存せずに活動している平和運動ならば それが社会的に害悪を与えていない限り 一般的に外野がどうこう言う必要はない。しかし、 人々の募金で活動を維持している組織の場合はその募金に見合う程度の 組織内努力が求められる。この基準で見た場合、 今の1フィート運動は胸を張ることができるとは思えないのだ。
 この記事で指摘されている<高齢化>や<若い世代の力が おおいに必要とされる>のは、私が出入りしていた1987年から 分かっていた。<岐路に立つ>のは15年前から 少なくとも私は分かっていた。1フィート運動の関係者なら みんな分かっていたはずである。
 若い世代と連携をとる機会はいろいろあった。にもかかわらず とらなかった。運営委員の責任は重大だと指摘せざるを得ない。
 抜本的な対策はいくつかある。まずは運営委員に若手をもっと加え、 同時に名前だけの運営委員にお引き取りいただくのである。 1フィート運動の運営委員は今流行の“セレブ”とやらになってはいけない。
 90歳の中村文子事務局長には1フィート運動の顔(代表)になっていただけばよい。 そして、実働部隊であるべき事務局に若手を増やせば情報収集力や情報発信力、 企画力などは飛躍的に向上するだろう。
 もちろん経済的に自立できない市民運動団体だから 専従を置くのは難しい。でも、無給に近くても 自分の時間をやり繰りして1フィート運動を 支えようと名乗りを上げる人はいるはずだ。
 もともと1フィート運動は県民の運動というかっこうで始まった。 組織を外に向けて開放することは市民運動のあり方として 真っ当だと思う。

ふくしまFMの収録(2004年7月13日)
 福島県内を視聴地域とする「ふくしまFM」の 番組「木漏れ日読書館」で『沖縄に恋する』を ご紹介いただけることになり、電話で話をした。
 福島空港―那覇空港間を日本トランスオーシャン航空が 飛んでいるから、福島県は沖縄県と縁がないわけではない。 そもそも福島は私が毎日新聞記者になって 最初に赴任し、取材で県内を右往左往した懐かしいところである。その上空を、 例えば『智恵子抄』で知られる安達太良山の上空を 私の声がこだま(あくまでも仮想絵図ね)するのである。智恵子が「本当の空がある」と語った その「空」をスイスイ飛ぶ(ここも仮想絵図ね)のである。
 さて、私から話を巧みに引き出してくださったのは、 渋い声で男前の道産子という三拍子そろった森雄一アナウンサーである。 3年前には新婚旅行で沖縄を訪ねた。「しゃかり」が大好きだ。 ディアマンテスの生演奏を楽しんだこともある。そんな人との 会話が弾まないはずがない。
 私が福島に住んでいたら、森さんを誘って沖縄料理の店パイナップルハウス (福島駅近くにある非常においしい店)に行くのになぁ。

国仲涼子ちゃんに“接近”(2004年7月9日)
 日本トランスオーシャン航空の機内誌『Colalway』7・8月号の <真夏のプレゼント大会パート2>という欄に、『沖縄に恋する』を 写真つきで載せていただいた。その隣に、<安全な沖縄県を目指して 「ちゅらさん運動」推進中>という県と県警の告知記事(広告?)があり、 国仲涼子ちゃんの写真が掲載されているではないか。
 この号には涼子ちゃんの取材記事が出ている。 ということは、『Colalway』7・8月号を涼子ちゃんが目を通す可能性は非常に高い。 パラパラと見ていけば<ちゅらさん運動>の 自分の写真に目を留めるだろう。そうなれば、すぐ隣の 『沖恋』に気づくに違いない。であるならば、 <著者はフリージャーナリストの西野浩史氏>という一文を 読んで、雷に直撃されたような感動を受けるのが道理である。 こうなれば、「面白そうな本だわ。買って読んでみよう。 筆者の西野さんってどんなかたかしら。 きっとステキな男性に違いない」と心ときめかせ、 結晶作用を始めるに決まっている。こうして、 「『ちゅらさん』では『ふみや』という男性と結婚する 設定だった。このかたは『ひろふみ』さんなのね。 名前が似ている!」と涼子ちゃんは運命を確信するのである。
 『沖恋』を読んだ涼子ちゃんはこの沖縄王の存在を知り、 さっそくパソコンで見て、私に電子手紙を寄越す――というのが 論理的帰結である。涼子ちゃんから電子手紙が来たら 私は何と返事を書こう。「ウエルカムですぅ〜」とやったら 堺正章だしなぁ。

貧相な「湘南ひらつか七夕まつり」(2004年7月5日)
 私が滞在している神奈川県平塚市で「湘南ひらつか七夕祭り」こと 「平塚七夕テキヤ祭り」(私の命名)がようやく5日間の日程を終えた。 今年で54回になるこの“祭り”を、何の疑問も抱かずに54回も続けてきたことに 私は不快感動を覚える。
 端的に言うと、地元民が不在なのだ。
 人々は何をしているかというと、ビニルで作った飾り物の下を歩くだけ。 ビニル製の飾りの下を歩くと、風に吹かれたビニルが擦れる音がする。
 たくさんの露店が出ていて、時折あこぎな商売をやっている。 100円や200円を大切そうに握りしめている子供たちから 詐欺まがいの方法でお金を巻き上げている(ただし地元の商店が自分の店の前でやっている場合は 基本的に良心的なものが多い)。
 道路の端っこに座り込んで、たこ焼きやジャガバター、お好み焼きなど、 特段珍しくもない、どこででも食えるものを食べる人たちがいる。
 特設舞台などでは中高齢者がフラダンスを披露していた。子供たちの軽快な踊りもあった。 県警音楽隊の演奏もあった。
 しかし、何もない。
 徳島の阿波踊りでは地元の人たちが自由に連をつくって 「えらやっちゃえらやっちゃヨイヨイヨイヨイ」と 楽しそうに踊っている。岸和田市のだんじり祭りでは地元の人が町内会別にだんじりを 「そーりゃー」と引っ張っている。青森のねぶた祭りでは地元の人たちがハネトになって 飛び跳ねている。福島・相馬市の相馬野馬追いで馬に乗って駆け巡っているのは地元の人である。 そして、沖縄のエイサーだって主人公は地元の人である。
 こうした祭りを見たり踊ったり引いたりしてきた私からすると、 平塚市の七夕祭りは祭りではない。いつまでこんな貧相な行事を続けるのだろう。 こういうものを祭りだと思うしかない地元の子供たちはかわいそうである。
 地元民不在の“祭り”を見るたびに、徳島や沖縄、青森などの人たちは 恵まれているなぁと思う。

素晴らしいゆんたく(2004年6月29日)
 「週末の達人」(http://www.weekendmaster.com) である小石雄一さんが主宰している会にお招きいただき、東京・虎ノ門で沖縄の話をした。 沖縄の話なので「ゆんたく」風である。
 沖縄の初心者もいれば上級者もいる。考えた末、 米軍基地の入り方や基地内での動き方のコツなど、 従来あまり知られておらず、おおっぴらにしにくい内容を中心にお話しした。 師匠について米軍基地を回った経験が役立った。
 会場で拙著をお買い上げくださったみなさまには、 ここであらためて感謝の気持ちをお伝えいたします。ご希望くださった方々には 署名をさせていただいたけれど、小学時代に硬筆と毛筆の勉強をして おくべきだったと恥じ入るばかりだった。 照れくささのあまり緊張し、署名に添える年月日を書く際に 「えーと、今年は1995年でしたっけ」と口走ってしまったのは、 思い出すだに恥ずかしい。

 <補記>翌日、WAVE出版編集者の面代さんから電子手紙が来た。私のしゃべりを褒めてくれている。 面代さんに原稿を褒められた記憶がないので、喜んでいいのか悲しむべきか……。

TOKYO FMに登場(2004年6月25日)
 TOKYO FMで放送中(月曜〜金曜の午前6時から9時)の 人気番組「モーニング・フリーウェイ」の「Kojima CATCH THE WORLD」というところで、 この沖縄王が紹介された。沖縄王に目をつけてくださった関係者の皆様に 感謝申し上げます。
 美しい声の女性が沖縄王の記事をあれこれ紹介する様子を聞きながら、 面映さと照れ臭さで汗が吹き出した。こそばゆ〜い感じね。
 それにしてもTOKYO FMが取り上げてくれるまでに沖縄王が 成長した(成長したよね?)ことがうれしい。 立ち上げの時から関わってくれた何人もの仲間のお陰である。 この喜びを今の仲間とともに、そして今は沖縄王を離れているけれども かつて一緒に頑張った仲間とともに、分かち合いたい。

焦る私(2004年6月11日)
 WAVE出版の編集者・面代さんから電子手紙が来た。
 『沖縄に恋する』の短評が載っている『ホット・ドッグ・プレス』(講談社)を ぱらぱら見ていたところ、「結婚したい有名人」という記事で 第2位に私の国仲涼子ちゃんが輝いていたというのである(第1位は井川遙)。 面代さんは「おおお、そんなに人気があったとは」と驚いている。
 ふっふっふっ。どんなもんだい! えっへんえっへんえっへん!  まいったか!(別にまいる必要はないけれど)
 しかし、競争相手は多そうだ。焦るぞ。何とかしなければ(って、どうするんだ?)。

私と国仲涼子ちゃんはお似合いである(2004年6月9日)
 WAVE出版の編集者・面代さんはついに認めた。 「西野さんの横に国仲涼子ちゃんがいたとしても、 その光景に違和感はないですね。似合っていますよ」
 私はずっとそう思ってきたから、 面代さんの発言は当然ではある。 私とお似合いであることを国仲涼子ちゃんに 伝えてあげなければいかんなぁとあらためて思いながら、 面代さんに訊いてみた。「どういう部分が合っていますか」
 面代さんはしばらく考えて、こう言った。 「彼女はどんな男性でも合いそうな感じがする」
 何じゃそりゃ。

宮城悦二郎先生まで(2004年6月7日)
 琉大教授や県立公文書館館長を歴任した宮城悦二郎先生が 亡くなったことを朝日新聞のホームページで知り、 パソコンの前で絶句してしまった。具合がよくないことは 間接的に聞いていたが、こんなに早く亡くなるとは。
 私が1987年に沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会で お手伝いをしていた頃から、ご自宅などで何度かご馳走になったほか、 取材でもお世話になった。自著『沖縄に恋する』を書く際には 宮城先生の『沖縄・戦後放送史』(ひるぎ社)が役立った。
 享年71歳。肺がんだった。入院先でもタバコを手放さなかった ようだから、タバコをたっぷり味わえたに違いない。しかし、 お元気であればもっともっとタバコを吸うことができたのに。

ビーンさんの携帯に電話したら(2004年5月25日)
 夕方の5時過ぎ、ビーンさんの携帯に電話をかけてみた。 仕事中かなと思ったが、そうではなかった。明るい声で 「いま泊大橋の下にいるの。三線を弾いているところ」 と言う。
 信じない私に、「じゃあ三線を弾いてみるからね」と いう声と、安里やユンタの出だしの部分の音色が聞こえて きた。どうやら本当らしい。
 ビーンさんが三線に目覚め、義父から借りて練習を始めたことは 知っている。しかし、なぜ泊大橋の下で練習をしているんだ?

ビーンさんからの電子手紙(2004年5月24日)
 沖縄王の仲間であり、 『沖縄に恋する』にも登場するビーンさんから電子手紙が届いた。
 <空港の本屋さんでの例の本の売れ行きは結構いいみたいですよ。 売店の子に「この本の売れ行きはどうですか? この本の作者は私の友人でして、 写真は私が撮ったのですよ」と話しかけたら、 「お客さん、前も言ってましたよね(笑い)」。 何と! 以前に話した店員であった。同じ質問を数回していたのであった。 恥ずかし>
 天然のブリを食いたくなってきた。ビーンさんの天然ぶりが 私の食欲を刺激したようだ(←そんなことがあるのか?)。

『琉球新報』の読書面に(2004年5月18日)
 16日付『琉球新報』が届いた。沖縄関連本を集めた読書面の頭記事に 私の本『沖縄に恋する』の書評が載っている。読書面にも 頭記事があるのかと驚く人がいるかもしれないので 簡単に説明しておくと、1つの面の右上にその面の頭記事が載るのは 社会面にも1面にも読書面にも共通する約束事なのだ。
 執筆は三木賢治・毎日新聞論説委員である。計算し尽した書評を読んで、 私にはここまで目配りできないなぁと舌を巻いた。思えば(思わなくても) 小学生のころから算数は非常に苦手だ。
 『新報』紙面に登場させていただいたことは、 文学座の新入りでありながら「太陽にほえろ!」に刑事役で 起用されたような気持ち、と言っていいだろう(よくない?)。
 心からお礼申し上げます。

75点(2004年5月15日)
 本土復帰の日である。というわけで、RKB毎日放送のラジオ番組 「あべちゃん トシ坊! こりない二人」が沖縄の特集を組み、 私は10分弱の電話出演をした。『毎日新聞』の「余録」を読んだ 番組担当者が声をかけてくれたのである。
 ラジオでのしゃべりは脳の瞬発力が必要である。 原稿を推敲して仕上げるという脳作業に慣れている私は、 話すという脳作業にも慣れているつもりだった。 しかし実際にしゃべってみると、意外に難しい。 情感をたっぷり込めてメリハリを効かせて話す 「あべちゃん」と「トシ坊」についていくのが やっとなのだ。
 番組を聴いたWAVE出版の編集者・面代さんは「ラジオを聞いた人が 一斉に本屋に行って『沖縄に恋する』を買う状態 になるのを100点とすると(←そんな状態にできるなら私は独裁者になれる)、 75点」と採点した。
 その昔、「65点の彼が好き」という歌があったっけ。 私はそれより10点も上なのだ。えっへん。
 

『毎日新聞』の「余録」に(2004年5月9日)
 今日付の『毎日新聞』の名物論評記事「余録」(1面の下にある)で 『沖縄に恋する』が取り上げられた。きのうのゴーヤーの日の 話にあわせた記事である。
 それにしても本当にびっくりした。 まさか「余録」が取り上げてくれるとは。 いきなりNHKの紅白歌合戦に登場したような心境である。
 驚天動地(主語は私ね)の「余録」は こちら

ゆたかはじめ先生と琉球舞踊館うどい(2004年5月5日)
 今日付の『毎日新聞』(東京本社版)の1面題字下を見て びっくりした。琉球舞踊館うどいを支える会の発起人である ゆたかはじめ先生の顔写真が載っているのだ。
 ゆたか先生についての記事は家庭面の「夢へのUターン」という 連載の中に掲載されている。取材した澤晴夫記者は、 私の福島支局時代の先輩記者である。
 40年間の裁判官生活で法曹界を離れたいきさつを読み、 私には絶対に真似できないと思った。ゆたか先生のように 私が東京高裁長官まで務めたなら(ありえない設定ではあるが)、 法曹界に残り、巨大台風並みのイバヤー風を吹かせるであろう。 それだけになおさら「すごいなぁ」と思ってしまう。
 ゆたか先生が沖縄で暮らすことの素晴らしさやうどいのよさを 語るこの記事を読み、無性に沖縄に帰りたくなってきた(←ほぅ、そうかい?!)。

美女と野獣とホテル日航アリビラのぽーぽー(2004年4月20日)
 パウエル米国務長官に酷似する友人から午後6時前に携帯手紙が届いた。 「無理やり休みを取って、これを食べてます。西野さんなら写真 だけでお分かりになると思いますが」
 写真を受信して、すぐに分かった。この室内は、 ホテル日航アリビラのラウンジだ。 写真の下のほうを見てみると、やはりある。「ぽーぽーと さんぴん茶」が。私の薦めで数年前に初めてこれを食べて以来、 “パウエルさん”はやみつきになったようだ。
 写真の奥には美しいお連れ合いとおチビちゃんが写っている。 「美女と野獣」の組み合わせとしか言いようがない。 正統派二枚目である私からすれば、 「美女と野獣」は悔しい話であるが、まぁこれは仕方ない。
 しかし、アリビラのぽーぽーを今まさに食っていると想像するのはシャクな話である。 食いたくても、読谷村から遠く離れた神奈川県にいる今の私には 手も足も舌も出せない。その代わりに、ああ、よだれが出てきた。 悔しくてもシャクであっても、ワタシの体は素直に反応してしまう。 パブロフさ〜ん!

牧港篤三先生に読んでいただきたかった(2004年4月14日)
 牧港篤三先生が亡くなったことを毎日新聞社のサイトで知り、 愕然とした。
 沖縄タイムス社相談役であり、 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会代表でも あった。沖縄戦を新聞記者として経験し、戦後になって 沖縄戦の代表的記録『鉄の暴風』を執筆した。
 私が沖縄に引っ越して偶然1フィート運動に 関わった1987年に初めてお会いした。以来のお付き合いで、 沖縄戦のことをうかがったり、記者としての姿勢を教わったり した。詩人でもあったからか、周囲が「先生」と呼んでいたので、 私も「牧港先生」とお呼びした。
 1フィート運動の会が収集したフィルムをNHKがドラマで 「無断使用」したという特ダネを91年10月に『毎日新聞』に書いた時、 当時副代表だった先生に電話して 「NHKは自分たちの資料だと思い込んでいるのではないか。 使ってくれるのはありがたいが、多くの人の募金や支援のお陰で 苦労して入手したフィルムだけに配慮してほしかった」という 論評をいただき、掲載した。
 あとで「牧港先生の息子さんはNHKのアナウンサーなのに」と 誰かから言われた。NHK批判をぶしつけにお願いしたことに対して、 後日いただいた年賀状で牧港先生は「ジャーナリストはそれでいい」と 記し、私を励ましてくれた。
 いつも柔和な表情と語り口を崩さなかった。それでいて、 新聞を見る目は厳しかった。共同通信が配信した沖縄県内の記事を そのまま地元紙が掲載していると、「どうして自分たちで取材し直さない のだろう。沖縄の話なのに」と悔しそうだった。
 今月下旬に発売される自著『沖縄に恋する』(WAVE出版)に、 ほんの少しだが牧港先生が登場する。先生にお送りして、 ご感想をうかがうのを楽しみにしていたのに。 『沖縄に恋する』の見本刷りを私が手にした日に 亡くなるとは。
 心から哀悼の意を表します。
 

『喜屋武の綱引き』(2004年4月11日)
 南風原文化センターの 南風原町伝統文化資料製作実行委員会という組織が 2002年に作った冊子『喜屋武の綱引き』を入手した。 南風原町の喜屋武で夜更けに行われている綱引きについての資料である。
 パラパラ見ていて、自分を見つけた。写真の1枚に私が写っているのだ。 恐らく私しか気づかないだろう。その程度の写り方ではある。
 冊子に掲載された写真に見覚えのある女の子が写っているので、 私が取材兼見物で喜屋武に行った2002年夏のものかもしれない、 それなら私が写っている可能性があると考え、探してみたのである。
 この喜屋武の綱引きは、観光化されていないのが一番の魅力である。 いつまでもこうであってほしい。逆に言えば、観光客が大挙して見物に 来るようになったら、この味わいは薄れてしまうだろう。粛々と地元民だけで 楽しむからこそ面白いのである。
 そういう話を含めて、近々発売される自著『沖縄に恋する』(WAVE出版)に 書いた。南風原町に1冊献本しようではないか。

国仲涼子ちゃんがいっぱい(2004年4月9日)
 国仲涼子ちゃんは太陽である。 私が熱を上げるのは堀ちえみ以来だなぁ(トシがばれそうだ)。
 というわけで、わが国仲涼子ちゃんをいっぱい手に入れた。 東芝の家電商品の紹介冊子の表紙に涼子ちゃんが起用されておる。 そこで、神奈川県平塚市内の大型家電量販店で恥ずかしながら (この私でもさすがに少々恥ずかしい)片端から集めたのだ。
 東芝の「クリーナー」「電子レンジ」「住宅用照明器具」 「調理器具」「洗濯機/衣類乾燥機/ドラム式洗濯乾燥機」 「エアコン」「冷蔵庫」「食器洗い乾燥機」「洗濯乾燥機/洗濯機/衣類乾燥機」の 昨年秋冬号や今年春号などで、計10冊集めたぞ。
 私のお気に入りは「洗濯機/衣類乾燥機/ドラム式洗濯乾燥機」の今年春号の 表紙と「エアコン」の昨年冬号の2ページ目である。
 ところで、商品の紹介冊子を見比べて気づいたことがある。 「国仲涼子」という文字を表紙に載せているのもあれば、 名前を全く載せていないのもある。表紙に載せて、さらに冊子の中で 写真とともに2ヵ所に名前を載せたやつもある(計3ヵ所ね)。企業としての統一感がない。
 さらに言えば、「冷蔵庫」今年春号の表紙は涼子ちゃんに 焦点が合っていない。これは許しがたい。こんなボケボケ写真なら 私でも撮れるぞ。私に撮らせなさい。

北海道の居酒屋にも(2004年4月9日)
 北海道・函館出身の若者が教えてくれた。 「北海道の居酒屋には駐車場があるんですよ。もちろん 運転手は飲まないということになってはいますが(笑い)」
 沖縄のあれこれを面白がる莫迦本(どの本だったか 全く分からない)に、沖縄の居酒屋には駐車場があることを 面白がる記述があったっけ。北海道の居酒屋にも駐車場があるなら、 沖縄だけの特徴とは言えなくなる。
 そういえば、時間を守らないのはアラブ人のほうがはるかに上手らしい。 国内や世界の中で「沖縄だけの特徴」と明言できるものは何なのだろう。それを 明言するためには、徹底的な取材が必要になるし、客観的な視点が欠かせない。 そんなものは私にもないのだが、そういうことを書く時は、 徹底的な取材や客観的な視点に不備のある自分が書いている、という ことだけは自覚していたい。

写真を見る目(2004年4月2日)
 編集者が写真を見る目は厳しい。というか、 単に私に写真を見る目がないだけなのかもしれないが。
 私が見た限りでは「いいなぁ〜」と思う写真であっても、 2人の編集者は「色がよくない」「この写真の狙いが分からない」 「不自然」などと厳しく指摘する。これまで、 写真のよしあしを決めるのは感覚の問題だろうと私は 思っていた。しかし、膨大な写真を選別する編集者2人の意見がほとんどズレないのだ。 感覚という曖昧なものの問題ではないのかもしれない。
 写真は理屈かもしれないぞと思い始めている。

『沖縄コンパクト事典』を買う(2004年3月19日)
 東京・神田の本屋で『沖縄コンパクト事典』(琉球新報社)を買った。 ちょうど調べていた項目が載っていたので、これだけで2300円出す価値は十分あると 判断したのである。
 商売上の競争相手である沖縄タイムス社の刊行物『鉄の暴風』などを 紹介してあるのもいい。「○年○月○日」や「○人」、「○キロ」など、 数字をきちんと押さえてあるのも素晴らしい。
 しかし、である。
 ここぞとばかりに並べた「琉球新報活動賞」や「琉球新報児童文学賞」「琉球新報賞」 「琉球新報短編小説賞」という項目を 見ると、琉球新報社の会社案内かと思ってしまう。 「根強い人気がある」と自社自賛した「新報女性サロン」という項目に 至っては、掲載に値する項目とは思えない。
 ま、ご愛嬌かな。

もずくは新潟にもある(2004年3月18日)
 もずくは沖縄の特産物だと思っていた。 でも、新潟にもあるそうな。「山形辺りの日本海でも 取れるはずだよ。もっとも、新潟産もずぐが 一番おいしいと日本中の人が思っている、と 新潟の人は思っているみたいだけどね」と教えて くれたのは、毎日新聞福島支局時代の先輩記者・野島さんである。
 しかも、「新潟の最盛期のもずくはキャベツのような歯応えがある」。 そんなの食ったことないぞ。食ってみたい。
 沖縄だけを特別視していると、“近眼”になる恐れがあることを あらためて感じた。
 この日は毎日新聞福島支局時代の集まりがあった。 死ぬほど恐ろしかった元支局長と死ぬほど怖かった元デスクも来た。 この人たちに怒鳴られ叱られ怒鳴られ叱られ続けて、 仕事に対する姿勢を身につけたんだなぁ。
 社会人の第一段階で仕事に厳しい上司に仕えることができた 幸せを噛みしめながら、新潟のもずくの噛み応えを想像した。

沖縄の話を7時間(2004年3月12日)
 沖縄のことを編集者とあれこれ話す。夕方4時に 話し始め、ふと気づくと午後11時近い。コーヒーを 飲みながら、約7時間も 沖縄のことについて話していたことになる。
 沖縄のことが話題になると楽しくて仕方ない。 7時間話してもまだ話し足りない。 好きな女の子のことを友人たちと飽きずに話した 高校時代と同じ感覚だな。

祝!(と自分で祝うのも悲しいが)『新版 慶応幼稚舎合格バイブル』出版(2004年3月11日)
 WAVE出版から『新版 慶応幼稚舎合格バイブル』の見本刷りが届いた。 私の新著である。
 旧版『慶応幼稚舎合格バイブル』が好評だったので、 幼稚舎内の最新情報や幼稚舎教育の中身を新たに取材して、 加筆・修正した本である。
 本の題名はジーゼスクライストさんから「神をも恐れぬ冒とく」と 怒られそうではある。でも、そのぶん目を引く。 営業的には素晴らしい題名である。中身はしごく真っ当な 教育書なので、神様はきっと許してくれるであろう。
 小学校受験熱が旺盛な地域でのみよく売れる。したがって 沖縄の本屋には並ばない。でも、本屋に注文すれば取り寄せてくれるので、 ご関心のある方はぜひ。

沖縄の話をするのは楽しい(2004年3月3日)
 2人の編集者と沖縄の話をした。 ふと気づくと4時間が経っている。
 「沖縄」の話ができるだけで満ち足りてしまう。 これも病気か。

羽田で風が吹けば(2004年2月22日)
 那覇市に住むビーンさんから夜遅くに電話がかかってきた。 「羽田空港周辺で強風が吹いたので、那覇空港に向かう 飛行機の出発が遅れ、仕事が長引いた」
 なるほど。そうかそうか。 本土の天候が沖縄に影響を与えることがあるんだなぁ。 空はつながっているんだなぁ。
 当たり前といえばあまりにも当たり前の話ではある。 しかし、沖縄を思わない日のない私としては、 この程度の“つながり”でもうれしくなってしまう。 病気だなやっぱり。

来客数30万人突破(2004年2月9日)
 午前2時11分に沖縄王の画面の下にある来客数をふと見たら、 30万と80人目だった。いつの間にか10万人を超え、20万人を過ぎ、 30万人台になっている。
 延べ30万人が見に来てくれたというのはすごいなぁ。と 書きながら実は実感が全くわかない。
 ここまで来たのは、見に来てくれたお客さんのおかげと言うよりは、 沖縄王に参加してくれた仲間のおかげである。 取材して写真を撮って原稿を書くという作業や更新作業を 楽しんでくれた(楽しいよね?)仲間の力の積み重ねである。
 というわけで、読む側から発信する側になってみたいという人を 引き続き募集している。

北那覇税務署からの電話(2004年2月5日)
 私の携帯に098で始まる電話が入った。沖縄からである。 誰だろうかと思いながら出ると、「北那覇税務署です」と言う。 何も悪いことはしていないのに、税務署という言葉は心臓によくない。
 「先日送ってもらった有限会社沖縄王の確定申告ですが、 数字が合わないんですけど」。私の頭に血がのぼる。
 沖縄王は休業中である。そこで、税理士に頼まずに 自分で確定申告を書いた。それが間違っていると言うのだ。
 数字の苦手な私には、税務申告の作業は悪夢でしかない。 数字が合わないと言われても、私にはワケが分からない(分かっていれば 間違うはずがないでしょ)。絶句していると、税務署の人が手助けしてくれて、 何とか修正することができた。
 税務署と言えば、週刊誌か社会面向けの面白いネタを1つ持っていることを思い出した。 自分で取材しようと思って置いてあるのだが、なかなか取材する間がない。 舞台はもちろん沖縄である。

「ナンクルナイサ」は沖縄の専売特許ではない(2004年1月9日)
 今日付の『毎日新聞』朝刊の「記者の目」で、大阪運動部の 松井宏員記者が、ゴルフの宮里藍選手を紹介している。アーメンと 手を合わせたくなる内容なので紹介しよう。
 宮里選手を取材する中で、「ナンクルナイサ」という言葉に出会った 松井記者は迂闊にも感動してしまう。
 ここでまず指摘しておきたいのは、 「何とかなるさ」という意味の「ナンクルナイサ」という言葉は 確かに沖縄の方言ではあるけれど、別段珍しい理念や哲学がこもっているわけではない ということだ。実際「何とかなるよ」という言葉は本土でも普通に使われる。 「なるようになる」「時間が解決してくれる」「明日があるさ」 「明日には明日の風が吹く」などなど、似たような意味を持つ言葉が あふれている。「ナンクルナイサ」だけを特別視する理由はどこにもない。
 ところがである。松井記者は仲村清司という人が書いた『沖縄人解体真書』という 本を根拠にして、「ナンクルナイサ」を特別視してしまった。仲村氏の著作の お気楽デタラメ記述について沖縄王で何度か指摘したことがあるので ここで詳しくは触れない。ただ、「そんな本を根拠にするなよ」と 松井記者に言っておこう。
 松井記者の「記者の目」から引用する。松井記者は仲村氏の 著書を引用して書いているらしい。
 <落ち込んでいる人に「がんばって」と言うと、 プレッシャーになって逆効果になることがある。沖縄では気落ちした人には使わない>
 ね。面白いでしょ。落ち込んでいる人に対しては鈍感な私でさえ「頑張って」とは言わない。 松井記者は落ち込んでいる人に「頑張って」と言ってきたのか? だとしたら、 松井記者自体に大きな問題がある。
 <沖縄の人は「くよくよしなければ、おのずとなんとかなってしまうものだよ」という ナンクル精神で、沖縄戦など数々の苦難を乗り切ってきた>
 ほ、ほ、ほんまかいな。沖縄戦当時に「ナンクルナイサ」と言って乗り切ってきた という話を私は聞いたことがない。
 私は仲村氏や松井記者より沖縄戦については詳しい。 聞き取り調査をしたことがあるし、 1フィート運動には2年少々関わってきた。ひめゆり学徒だった人との お付き合いもある。だから自信を持って言える。 沖縄戦を「ナンクルナイサ」と乗り切ったという話を私は信用できない。 身内を亡くしたり傷ついた友人を見捨てたり雨と砲弾の中を彷徨したりした 人たちが「ナンクルナイサ」だって? 
 戦後ずいぶん経って沖縄戦を振り返る余裕が出てきた時に 「ナンクルナイサ精神でやってきた」と色づけすることはあるだろう。 あるいは被害が少なかった人ならそう言ったかもしれない。しかし、 そういう人を根拠に「ナンクルナイサ」をさも貴重な言葉のように とらえてはいけない。ましてや<沖縄戦>を<乗り切ってきた>ことは ありえない。引用を続ける。
 <皆で励まし合って 共生していこう、という深い意味が込められている>
 ひどいねぇ。「ナンクルナイサ」という言葉が生まれた時から <共生していこう>という意味が含まれていたってか?  「ナンクルナイサ」に<共生していこう>という意味が あったという話の根拠や出典を明示してほしい。 <共生>という言葉自体が実は新しいのである。 もう滅茶苦茶だぞ。おーい仲村くぅぅぅぅ〜ん!
 にもかかわらず、松井記者は「ナンクルナイサ」をさらに持ち上げ、 神様のように祭り上げる。引用する。
 <私も最近よく「ナンクルナイサ」とつぶやく。そうすると、 明日への希望がわいてくる。他紙に抜かれ、ミスを繰り返していた 若いころ、この言葉を知っていれば、という、ごく私的な感傷は横に置いて>
 明日への希望がどんな言葉でわいてもいい。それは自由である。 しかし、<他紙に抜かれ、ミスを繰り返していた>時に 「ナンクルナイサ」と唱えている場合か? そういう言葉で ごまかして逃げるのではなく、 抜かれやミスに向き合うことが重要ではないか。
 <自分を励まし、人と励まし合い、元気を取り戻すナンクル精神こそ、 しかめっつらの目立つ日本に必要なのではなかろうか>
 必要ではない(断言)。<ナンクル精神>に頼らなくても、 本土の人間はこれまで通りに「何とかなる」でやっていけばいいのである。
 それからね、一番重要なことを指摘しておくと、 人生には<ナンクルナイサ>で済まされないことがたくさんあるんだよ。 例えば、わが子を殺された親に向かって<ナンクルナイサ>と言えるもんなら 言ってみるがよい。余命幾ばくの人に言える?
 松井記者の最大の失敗は、仲村氏のお気楽本を根拠に してしまったことだろう。少しも検証(自分の脳で考える)せずに 鵜呑みにしたのだから同罪だけどね。
 以上、沖縄のものを何でもありがたがってはいけない、という 当たり前の指摘でした。ちゃんちゃん。

平良とみさんとオバァ(2004年1月2日)
 NHKが正月の特別番組として放送した 「ちゅらさん」総集編を見た。さすがNHKである。 受信料を何十年も払っていない私ではあるが、 思わず払いたくなるほどの“お年玉”である。
 「ちゅらさん」放送当時、平良とみさんは主役に勝るとも劣らない人気を集めた。 事実、その当時のテレビの手抜きおしゃべり番組(いわゆるトーク番組)に 平良さんが出演しているのを私は何度も見たことがある。ただ、見るたびに 痛々しかった。
 なぜか。
 テレビ局側が期待しているのは「平良とみ」ではなく 「オバァ」なのだ。しかし、平良さんはかしこまって誠実な 言動に終始するものだから全然「オバァ」にならない。 番組としてはこれでは面白くない。
 「オバァ」は架空の人物である。 テレビ局がこのことを区別できていないはずがない。だが、 番組の出演者は平良さんに「オバァ」を期待して(区別できずに?) 話を振っていた。
 それに対して豪快に「ばかチンが!」などと反応することができれば、 平良さんは爆発的な人気を集めただろう。
 平良さんが真面目な性格でそうしたことを軽々しくできないと 考えていたのかどうか私には分からない。ただ、 平良さんは「沖縄」を背負っているように見えた。 だからこそ、丁重な会話に終始したのだと思う。 テレビ的な面白みには欠けた。引っ張りだこの人気者になる機会を得ることも できなかった。しかし、それでいいと私は思う。
 ところで、「ばかチン」の「チン」はいったい何を指すのだろう?
  

東京・原宿で楽しむ太陽風オーケストラ(2003年12月21日)
 東京・原宿のアストロホールは満席である。 ざっと数えて150人はいる。太陽風オーケストラの生演奏会を東京で 開くと聞き、駆けつけた私は、沖縄での生演奏会を基準に 「20人くらい集まるかな」と推測していた。
 周囲の人の話を盗み聞きしてみると、沖縄出身者の集団や ダイビングで沖縄に行ったことがある人などがいる。年齢層は ざっと見て20歳前後から60代までと幅広いようだ。商圏の広い東京ならでは、だろう。
 久々に演奏を聴く。3月に宜野湾市にある生演奏店で聴いて以来だから、 9ヵ月ぶりである。
 「大地の鼓動」には体が震えるような感覚に包まれた。もともと 好きな曲ではある。曲の演奏手法に工夫を凝らしていたから、 なおさら揺さぶられてしまったのかもしれない。これまた私の好きな 「伝令」なども楽しめ、うれしい年末になった。
 太陽風オーケストラの音楽の基本的な特徴は、 歌詞がないところにある。歌詞がないぶん、想像の翼を 広げて、音楽に合わせて想像の世界を自由自在に飛び回ることができる。 私の脳は言語野を日々酷使しているからか、言語を離れた世界に対して、 (私の脳は)大いに寛ぎ、喜んでいるように(私の脳は)感じた。
 ところで太陽風というのは、太陽から出る超高速の荷電粒子のことである。 具体的な現象としては、オーロラを生じさせたり、彗星の尾を吹き流したりする (以上は2003年12月24日付『毎日新聞』朝刊の「発信箱」<太陽風の贈り物>から)。
 

サザンのDVDで感じる沖縄(2003年12月18日)
 サザンオールスターズは今年、北海道から沖縄まで計6ヵ所で 演奏会をした。その6ヵ所の「音」を聞き比べれば、 「沖縄での演奏はこれだ」と判断できる自信がある。
 判断の根拠は、指笛の音である。 この音はほかの地域の演奏会では聞かれない。
 サザンのDVD「サマーライブ2003―流石だスペシャルボックス」を 買った。今年の9月7日に宜野湾市海浜公園屋外劇場で開かれた様子を 完全収録してある。
 この海浜公園から臨む東シナ海の空と雲の映像を見ると、 沖縄らしい光景だなぁと思う。蒸し暑い南国独特の空気を感じる。 しかし、それ以上に沖縄らしさを明確に感じさせてくれるのが 指笛の音だった。
 三線に勝るとも劣らない、沖縄を代表する音の1つと言っていいだろう。
 

川門正彦ライブを東京・新宿で楽しむ(2003年11月7日)
 カチャーシーの演奏が始まると、売り物である沖縄のお菓子を 両手に持った女性が踊りながら舞台に出てきた。 「沖縄」らしい、絵になる光景である。拍手が大きくなる。
 東京・新宿駅の西口催し広場には、 川門正彦さんの歌と演奏を見ようという人が、ざっと数えて軽く100人以上集まった。 中には三線の入れ物を持った人が数人いる。若い人も初老の人もいる。 本土の人が多いかな。
 この広場ではちょうど沖縄物産展が開かれており、 その一環として川門さんの演奏会が催されているのだった。お菓子を手に カチャーシーを踊っている女性は、売り場の売り子さんだ。
 川門さんをかつて取材させてもらった(「沖縄トレンディ」に掲載)際、 その舞台運びのうまさや演奏のすごさに感嘆した。あの時と同じように 今回も熱くて渋い舞台である。
 川門さんが三線を引きながら「同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」と 叫ぶ。おお、これは私の古里・徳島の阿波踊りの歌詞ではないか。 と同時に、どうでもいいことだが(でも言わせてくれ)、 私の座右の銘であり人生観である(そこまで言うか)。
 新宿で川門さんの演奏会があると私に教えてくれたのは、 さーたーさま(鎌倉市在住で沖縄音楽の達人で誠実な人柄で 貴公子風の二枚目)である。
 今回の演奏会は、物産展の一環なので無料だった。ありがたい。 主催者の太っ腹に感謝する。
 東京周辺に住んでいれば、沖縄音楽のいろいろな演奏会に 出会う機会はけっこうある。さて、次はどれに行こうかな。

月を見上げる(2003年11月7日)
 沖縄のサンタ姐さんから私の携帯電話に電子手紙が届いた。
 <空を見上げればきれいなお月様さま。そちらから 見上げる空はどうですか?>
 夜空を見上げると、薄い雲の後ろに丸い月が見える。 最近は時間に追われる日が続いていて、月を見る余裕など 完全に失っていた。
 月を見て何がどうなるってことは特にない。でも、 この月が沖縄でも見えているんだなぁ。

確信犯の石原知事(2003年11月6日)
 東京都の石原知事が大田前知事を指して「女学生」と形容して、 沖縄の一部で物議をかもしたことがある。2002年の秋ごろだった。
 基地問題を米政府に直接訴えた大田さんの行動を 「女学生のような」と茶化した言葉である。あれから1年、今も 石原知事は同じ趣旨の発言をしている。マスコミは報道していないが。
 当時の沖縄の革新系の人たちや大田さんの側の人たちは「女学生」発言に 猛反発し、地元紙も同じ姿勢で報じていた。
 しかし、である。大田知事の手法が実際どんな効果を上げたのかを 個別具体的に検証しないまま「女学生」に反発していたことに対して、 私は大きな違和感を抱いた。
 「書くなよ」と記者たちに念を押しつつも同じ発言を今も 石原知事がしているのは、「大田前知事は“女学生”ではなかった」ことを 証明できていないからではないだろうか。

西銘順治元知事(2003年11月5日)
 ほとんど誰も知らないことだが(涙)、 私はごくまれに「教育ジャーナリスト」と称されることが ある。教育に関する著書が1冊だけあるからだろう。 だからというわけではないが、教育の分野には時々目をフラフラと走らせる。 で、懐かしい写真を見つけた。
 四谷大塚の教材『予習シリーズ 社会4年 上』に 「一年中あたたかい地方のくらし」という章があり、 沖縄県の風土や沖縄戦のことなどが計5ページにわたって紹介されている。
 最初のページの上半分を使って掲載されている写真は4月の海開きの光景だ。 いかにも沖縄らしい写真だと思う。写真の真ん中にいる人物を よくよく見ると、2001年11月10日に亡くなった 西銘順治元知事ではないか。
 西銘さんが県知事だったのは1978年から90年にかけてだった。 ということは、この写真は10年以上も前に撮影したものだという ことになる。西銘さんのあとは大田さんが知事をやり、今は 稲嶺さんがやっている。

沖縄もの?(2003年10月24日)
 今日付の『毎日新聞』に「うこん金吉」という ウコン製品の広告が 載っている。「沖縄育ちのウコンです」と大きな文字が あり、「長寿県・沖縄で愛されるウコン」「沖縄県産秋ウコン 100%使用」などの文字が目に付く。
 販売者は鹿児島市の「株式会社こだわり王国」である。
 そういえば、那覇空港で売れている“沖縄みやげ”の1つ 「紅芋レアケーキShuri」も、鹿児島県鹿屋市に本社のある 企業の商品だ。この商品の中には「沖縄空港のみの限定販売」 「沖縄みやげ」「他では絶対に手に入りません」としつこく書かれた 短冊が入っている。
 「沖縄空港」という名称の空港はないぞ、という 突っ込みはさておき、沖縄の地元の企業にはもっと頑張ってほしいとしか 言いようがない。もちろん私(のような賢明な人間)なら、沖縄でみやげ物などを買う場合は、 沖縄県内で作られたものしか買わないが。

真実とは何か(2003年10月3日)
 あくまでも架空の話である。
 ある全国紙の社会部長と 地方部長がカツラをしている、とする。 カツラか地毛かを見分けるのはたやすいから、 部員たちはすぐに見抜いた、とする。
 そういう状況で、部長たちが「新聞記者は 真実を追究するのが仕事だ」と言った、とする。
 この発言に矛盾は一毛もない?
 

ちょっとだけよ(2003年9月30日)
 7月に沖縄で取材して書いた原稿が宙に浮いている。 ある業界紙の依頼で私が取材したものである。
 この業界紙の所有者に午前中に会って聞いた話によると、 所有者本人は掲載に積極的なのだが、編集部内では「広告で食べている業界紙に こんな批判記事を載せるわけにはいかない」という抵抗があるそうである。 「ジャーナリズム精神ある記者たち」と「経営のことしか 考えない所有者」という一般的な構図と逆なのが面白い。
 私は労働に対する対価を得ているから、記事がどうなっても 知ったことではない。
 でも、とっても面白い内容なのだ。詳細を書くわけにはいかないから 簡単に書くと、以下のような内容になる。
 沖縄県内で行われている某公共工事が談合で決まったことが 私の調べで明らかになった。また、革新系(世間的にはたぶん革新系) 政党の幹部を務める某市町村議員に収賄容疑が浮かび上がるとともに、 この議員が少なくとも1人の某市町村議員に対して 札束を渡して裏工作に動いていたことも私の調べで分かった。
 全国紙なら社会面で40〜50行くらいの記事になるだろうし、 地元紙なら1面と社会面で展開する話である。
 

東京・亀戸での再会(2003年9月1日)
 東京の下町・亀戸の、とある雑居ビルに入り、 自分の名前を名乗った途端、「西野さんではありませんか」と 言われた。その声の主を見てすぐに分かった。
 私は1987年2月から89年3月まで沖縄で暮らしていたことがある。 生活費を稼ぐために那覇高等予備校で講師をしていた。 その当時の教え子・宮良さんなのである。
 約15年ぶりの再会である。会おうと思っても 会えるものではない。宮良さんが女性なら 再会を祝してヒシと抱き合うのだが、男である。

カチャーシーを徳島で踊る(2003年8月15日)
 阿波踊り最終日の昼間、徳島駅前にあるそごう前広場で カチャーシーを踊った。「琉球國祭り太鼓」がエイサーの数々を披露して、 最後にカチャーシーになったので、待ち構えていた私は 飛び出したのである。カチャーシーを踊っているつもりなのに 阿波踊りになってしまうのだが、そんなことはどうでもいい。
 ♪同じ阿呆なら踊らにゃ損々♪ という価値観で育った土地柄か カチャーシーの魅力かは分からないけれど、意外にも大勢が出てきて楽しそうに 踊っている。大きな太鼓を借りてうれしそうに叩く初老男性や パーランクーを物珍しそうに叩く女の子、愉快そうに跳ねる若い女性、 そして「祭り太鼓」の踊り手たちは、数百人の見物人が囲む輪の中で カチャーシーを踊りきった。
 阿波踊りを踊ろうと思い、久々に帰省していた私は、 この日に「琉球國祭り太鼓」の演舞があることを偶然知り、 わざわざ見に(踊りに)来たのである。偉い。
 この「祭り太鼓」の踊り手たちは、東京と神奈川、岐阜、徳島にある支部から 駆けつけたそうだ。「明日は沖縄に行ってエイサーを踊ります」と言っていた。 連日踊ることができるとは、羨ましい。
 踊る文化があり、それを伝承してきた徳島や沖縄などは 恵まれているとあらためて思う。例えば、神輿をかついで “押しくら饅頭”をする祭りの場合、みんなが担ぎ手になれるわけではない。 また例えば、神奈川県平塚市の七夕祭りのような、 的屋の並ぶ道路を歩いてたこ焼きやジュースなどを飲食するだけの祭りは 主役であるべき市民が不在である。
 祭りは見るものではなく参加するものだ。というわけで、 この夜も阿波踊りを踊り歩いた。
 ああ、もっと踊りたい。
 

なんとびっくり(2003年8月10日)
 長期“出張”先である神奈川県平塚市のJTB平塚支店で、 「ホテル日航アリビラに泊まる 南国リゾート沖縄周遊3日間」 と書かれたチラシを見つけた。2日とも夕食がつき、 3日間の観光つきで、 大人1人の料金が3万3000円から4万1000円だって。 もちろん飛行機代込みである。
 安い。安すぎる。「何とまぁ、びっくりする値段だなぁ」と 感心していたら、チラシにも「なんとびっくり!!」と書いてある。お前が言うな。
 あらためてよくよく見たら、1泊目は別のホテルだったり、 観光先が海洋博公園や万座毛などだったり、美ら海水族館は 自費だったり、3万3000円の格安料金は大人4人1室という条件だったりすることが 分かり、最初に感動した分だけ沈んでしまった。でも、 気の置けない仲間を3人集めて9月28日から12月24日の間に出発できるなら、 沖縄入門編の旅行としてはとても値ごろ感があると思う。
 ああ、久しぶりにアリビラで「ぽーぽーとさんぴん茶」を 食いたくなってきた。
 

平塚市の商店街で聞いた沖縄民謡(2003年8月3日)
 “出張”先である神奈川県平塚市の商店街で、 沖縄民謡を歌う声と三線の音色が聞こえてきた。 この女性の声は聞き覚えがある。
 声のするほうに行ってみたら、やはりそうだった。4月29日に 市の総合公園で歌っていた人たちである。確か 「関東沖縄民謡研究会登川流平塚支部」と紹介されていた。
 商店街にある「音楽スペースパル」で9月から 三線教室が始まる。そのお披露目として歌っているようだ。
 またもや勝手に130万沖縄県民を代表して、三線教室の繁盛を祈る 私であった。
 

日航アリビラからの携帯電子手紙(2003年7月26日)
 取材のため、東京都内で車を走らせていたら、 携帯電話に電子手紙が届いた。きのうから2泊3日で沖縄旅行中の 友人・藤井さんからだ。
 沖縄王で紹介した「日航アリビラのぽーぽーとさんぴん茶セット」を ぜひ食べてみたいと思った藤井さんは、日航アリビラに泊まっている。 携帯手紙によると、日航アリビラのプール脇でくつろいでいるという。 私はちょっとだけ面倒な取材を目前にしているので、車を運転しながら、 会話の段取りなどを考えている最中である。 それなのに、日航アリビラのプール脇で癒されているとは。羨ましい。
 怪しからんのは、藤井さんはまだ20代だというのに、 私より年上の男と交際していることである。いいなぁ(←何のこっちゃ)。
 話がずれた。
 これまた私が紹介した「花織そば」を彼氏が大いに気に入ったという 携帯手紙も届いた。藤井さんの沖縄初旅行がいい思い出になってくれるといいなぁ。 沖縄好きになってくれるといいなぁ。130万県民を勝手に代表して祈った。
 

県民服(2003年7月12日)
 沖縄への“帰省”を終え、再び本土に“出張”する日である。 この間に私は県民服(かりゆし服)を2着買った。 もちろん本土で着るために、である。2着ともけっこう派手な柄で、 私は大いに気に入って買った。
 友人たちは驚く。「これを沖縄県外で着るの!」「中国人の国民服を 日本で着ると変でしょ。それと同じことが言えるはず」
 私は沖縄県内では県民服を着ない。公務員や銀行員に勘違いされたくないから着ない のではない。あまりにも大勢が着ている県内では着たくないだけだ。
 おしゃれとはこういう感覚を言う。

海鮮食事こもり(2003年7月11日)
 明日の本土“出張”を前に、いい店を探していて見つけたのが、 豊見城市にある「海鮮食事こもり」である。ジェフから少しだけ 糸満市寄りにある。気さくなオヤジさんは 「うちは冷凍物は一切使っていない」と言う。その誇りやよし。 価格は手ごろで味はいい。また食いに行こうっと。
 駆け足の沖縄“帰省”の中、北谷町のカフェブルーに顔を出し、 宜野湾市の三匹の子豚で昼飯をサンタ姐さんと食い、すぐ近くに移転したばかりの にんじん食堂に行き、国際通りにあるドトールコーヒー松尾店でかわいい ニイナちゃんに再会し、那覇市のケントスで友人と夜中まで踊りまくり(これは「遊ぶ」欄で 紹介)、那覇市のあじゃずでソーキそばを食い、 いやぁ楽しかったの何のってもう大変。
 ……って、私は何をしに沖縄に“帰ってきた”んだろう?
 

津嘉山シティーでうたた寝(2003年7月11日)
 取材相手との待ち合わせ場所である南風原町の津嘉山シティーに行った。 ところが、10分経っても20分経っても相手は来ない。実は相手は約束時間を 勘違いして1時間前に来ていたのだが、そうとは知らない私はひたすら待つ羽目になった。
 建物の入り口にあるイスに座る。青空に入道雲という光景が目に入る。 頬に当たる風が心地よい。……いつの間にかウトウトしてしまったようだ。
 ふと目を覚ました。腕時計を見る。30分くらい眠ったようだ。 通りすがりのおじさんが 笑いながら声をかけてきた。「よく寝ていたねー」

メヒコ那覇店に集まったうどいサポーターの会(2003年7月8日)
 玉城村にある琉球舞踊館うどいを声援する会の会合が、 私の“帰省”期間中にたまたま開かれた。 那覇市の自由貿易地域内の「メヒコ」で 昼飯を楽しみながらの会合である。
 この店の昼飯は自由に食い放題食べ放題で、アイスクリームまである。 これで価格は1000円弱だから、けっこうな割安感がある。
 こんなことなら朝飯を抜いてくるべきだったと密かに反省した。
 那覇空港のそばにあるから、本土に飛ぶ前に昼飯を食いたい人などにとっては ぴったりだ。なおこの「メヒコ」は東京都や福島県、 茨城県などにもある。沖縄限定の店ではない。念のため。

やけど(2003年7月5日)
 那覇市内から恩納村のみゆきビーチまで原付きで 走った。天気がいいので気持ちいい。長袖をひじまで腕まくりした。
 用事を済ませての帰り道、両腕が赤くなっているのに気づいた。 昼間に2時間弱走っただけなのに、軽いやけど状態になっている。
 沖縄で生活していれば自然に少しずつ直射日光を浴びるから、 やけど状態にならずにいつの間にか日焼けしているものである。ところが、 久々に沖縄に帰ってきた私は、この沖縄で走りまわることができるのがうれしくて、 太陽の強烈さに気が回らず、直射日光を“大歓迎”してしまった。 ああ、両腕がヒリヒリするぞ。これでは観光客と同じである。
 これから沖縄の夏を楽しみに来る本土のみなさんは、 お気をつけください。

沖縄に一時“帰省”する(2003年7月3日)
 午前10時45分羽田発の全日空125便で沖縄に飛ぶ。 離陸して40分ほど経ったころ、 「この先に15分ほど気流の悪いところがあります」という 機内放送が流れた。一気に緊張が高まる。
 手持ちの『毎日新聞』の 天気欄を見てみたところ、梅雨前線が太平洋上に横たわっている。 ははぁ、こいつだな。
 しかし、である。今日の ワタシには“国仲涼子ちゃん”がいる。といっても、 その実態は羽田空港の売店で買った「琉球号」なのだが、「いわしの頭」程度の 役割は果たしてくれるに違いない。
 揺れるたびに、“国仲涼子ちゃん”を飲み、ココロを 落ち着かせた(←そんなので落ち着くのか?!)。
 私の不安をとりあえず拭い去ってくれたのは午前11時43分に 機内放送した機長の声だった。「前線の影響で揺れることが ありますが、飛行の安全性には全く問題ありません」という 力強く落ち着いた声に、私の命を賭けることにした。
 さて。トイレの順番待ちをしていたら、客室乗務員から 「お待たせしてすみません」と声をかけられた。 美しい女性である。奥菜恵と二谷友里恵を足して二で割ったような 美しい顔だちなのだ。いよいよ私の運勢も上向きに なってきたぞ。
 私は壁をつかんだまま(揺れているからね) 「いえいえ。ところで、こういう揺れは恐くないんですか」と聞いてみた。 「この程度では」と優しい笑顔で返事が戻ってくる。おお、 脈がありそうだぞ。相性がよさそうだ。いいに決まっている。 だって、いくら仕事とはいえ、嫌な感じの男に声をかけることはないだろう。
 沖縄王の名刺はあったかな、あ、 かばんの中だ、しまった……と瞬間的に考えたところで、 トイレが私の番になった。残念だなぁ。もう少しだったのに(←何が?)。
 こうして真夏の沖縄に一時“帰省”した。今度飛行機に乗る時は 名刺を胸ポケットに必ず入れておこう。

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©2003, 沖縄王