英祖王の墓(出る時に頭をぶつけてしまいました)


尚寧王の墓


後日、訪れた階段。今度この門が開かれるのはいつ?
「浦添ようどれ墓室見学会」で見たもの

 浦添城跡内にある英祖(えいそ)・尚寧(しょうねい)両王陵の墓室が 特別に一般公開された。今から750年前の王様(骨だけどね)や 石棺を見ることのできる貴重な時を逃すものか! と友人と一緒に 赴いた。「ようどれ」は「夕凪」の琉球語で、「極楽」を意味するとも 言われている(浦添市教育委員会資料より)。

 午後2時からの公開開始だが、最終日なので 人が集まるのを予測して、午後12時に現地に着く。 案の定、墓室へ続く階段辺りには40人ほどがすでに並んでいる。 その列に続いたところ、同教育委員会が 資料冊子を広げるために設置したテント内で運良く待つことが出来た。 この日は快晴で太陽光をまともに浴びるのを防げたのは良かったが、 風が全くない。だが、こんなことでめげるものかと辛抱強く 待つ。そんな私たちに王様はさらなる試練を与えたもうた。

 待っている間に資料冊子を読む私の横で、 オバハンが手にした何かでパタパタと風を起こしているのだが、 それが私の手や持っている冊子にバタバタと 当たっているにもかかわらず、一向に気にしないのである。 よくよく見たら、教育委員会が作ったその小冊子で パタパタとやっているのだった。

 ムムム……とプチストレスのごとく眉間にシワを寄せるが、 同伴の友人に不快な思いはさせたくなかったので、黙っていた。 やがてそのオバハンはどこかへ消えてしまった。ホッとしたのも束の間、 今度はオッサンが「墓室入り口の写真を、人を入れる前に 撮りたい」とエゴの塊のような申し出を教育委員会にしている。 教育委員会が「日をあらためて撮る機会を作る」と 丁寧に断っているのに折れないエゴオヤジ。 結局、同じ押し問答を5回くらい繰り返した挙げ句、オヤジがようやく 引き下がった。私のシワは2本から3本へと増えた。だが、 その後血管がブチ切れそうになるくらい とんでもないことがーー!(ガチンコ風)

 教育委員会の方の計らいで開始時間を1時間早め、 午後1時頃から一般公開が始まった。 墓室入口へと下る階段は木々に囲まれ、 今までのムシ暑さがウソのように風が吹いて 涼しい。

 最初は英祖王の墓室だ。 その前には戦前(1934年頃)や戦後の写真が展示されている。 それを見ると、戦前は暗しん御門(くらしんウジョー)と 呼ばれる墓室の入口へと続く トンネルや3段からなる石垣などがある。が、 戦後の写真には、トンネルや石垣はおろか 墓室の屋根部分までもが破壊されたあとが、 まざまざと写しだされている。歴史的建造 物が無残に崩壊した様子に胸が張り裂けそうな 気持ちに陥る。

 英祖王は、1260年に「ゑそのてだこ」と呼ばれ、 英祖王統を開いた人物だ(教育委員会資料より)。 「てだこ」とは「太陽の子」という意味で、 英祖王はお告げにより処女懐胎で生まれたと言われている。

 墓室内は撮影禁止だ。 石棺が正面と左右にコの字形に置かれている。その石棺の壁には、 阿弥陀如来や観音菩薩、蓮の花などが彫られている。 石棺の上にガラスの蓋が置かれ、中が見える。 専門家ではないので、正直言ってどれが骨なのか 全然わからない。瓦礫が詰まっているといった風である。 かろうじて歯の形を見つけては友人と興奮を分かちあう。 その時である。

 4歳くらいの子が石棺の中の骨を見ようと手前の手すりに 掴まりながら、石棺に足をかけたのだ! 「はぁっっっっ!」と 心の中で叫ぶと同時に親を探すと、父親は下の子を抱っこしていたので 私は納得したのだが、母親は何もせずただボーっと骨を 見ているだけである。「抱っこしてあげろよぉぉぉ」と 思いながらも小心者なので何も言えず、 眉間にシワを寄せたまま次の墓へ向かう。

 次は尚寧王の墓へ。最終的に、1620年に尚寧王が このようどれを修築し、戦前までその姿は変わらず 守られてきたようだ(教育委員会資料より)。 この墓には尚寧王から3代前までの一族が葬られている。 ここでもド素人の私たちは、歯らしき骨や緑色の宝珠を見つけて 興奮するにとどまる。

 現在、教育委員会では、ようどれの復元を目指し、 平成16年の完成を目標に工事を進めている。 同時に発掘調査が行われ、琉球王朝の新たな 歴史の発掘に尽力する日々を送っている。 その“門”が再び開かれる時が来ることを祈る。 (沖縄王・Kiyomi G.)





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