書評 『切ない沖縄の日々』筆者の軽薄短小ぶり


 筆者の高良倉吉氏は浦添市立図書館長などを経て 琉大教授になった。県民の多くはもう忘れているかもしれないが、2000年春に「沖 縄イニシアティブ」という“花火”を打ち上げて一瞬だけ話題になったメンバー の1人である。そんな高良氏の“エッセイ”が『切ない沖縄の日々』(1995年10 月31日第1刷発行・ボーダーインク)だ。今回取り上げるのはこれである。(西野 浩史)

 何を勘違いしているんだろうと私が思ったのは「夏終わる」(66〜67ページ) だ。ロックフェスティバルについて書いてある。<演奏が終わり、すっかり疲れ きった聴衆が去ったあと、仲間たちとともに会場のゴミをせっせと片付ける。ボ ランティアのスタッフたちは皆、背中を丸めて、物も言わずにゴミ集めに熱中し ている>という辺りから、高良氏がスタッフの一員であるらしいと 推測できる。

 高良氏は<このフェスティバルの本当の主役は だれなのか>と考えなくていいことを考えてしまう。 その結果<ポスターを貼り、警察にしかられ、キップをもぎり、場内トラブルを 処理し、そしてゴミを片付ける、この俺たちが主役だ>と主張する。

 歪んでいるなぁこの人は。まず、主役が誰かといちいち考えること自体が私に は理解できない。私はこれまでにいろんなイベントの裏方をやってきた。でも、 主役が誰かと考えたことはなかったし、今考えてみても裏方の私が主役であるは ずがない。私が謙虚な性格だから(笑い)ではない。

   高良氏は、主役はミュージシャンでも客でもなく自分たちだと主張する。この 臆面のなさ(というか幼児性)に私は絶句する。私の常識で考えれば、主役は ミュージシャンである。私がりんけんバンドのライブを聴きに行くのは、主役で あるりんけんバンドの歌や踊りを楽しみたいからだ。どんなライブでも照明さん や音声さんが存在するが、その人たちが主役だと私は思わない。でも、裏方には 裏方の役割と誇りがあると私は思う。裏方は「俺たちが主役だ」と主張しないけ れど、ステージやイベントを支えているという誇りに満ちているのではないか。 参加してくれた人が満足してくれればそれで十分うれしい。裏方とは本来そうい う存在ではないか。

   高良氏はさらにこう書く。<水銀灯に照らし出されるゴミ集めの仲間たち。そ の物いわぬ光景は、実に偉大である><それにしても、評価や判断の前に、ひと は何かを実行していなければならない。「実行」の内容はマスコミで報道される だけがすべてではない。その証拠に、水銀灯の下で、ぼくたちが背中を丸めて ゴミを集める偉大な光景は、マスコミで一度もとりあげられたことがない>

 最後の一文に私は注目する。ゴミ拾いをしている高良氏たちのことをマスコミ が一度も取り上げないと、 わざわざ書いてある。取り上げないのは当たり前である。ゴミ拾い程度のこと で、マスコミがなぜいちいち取り上げなければならないのか。ゴミ拾いを全部取 り上げていたら、新聞紙面やテレビのニュース番組の半分以上が「ゴミ拾いをし てる○○さん!」というニュースで埋まってしまうだろう。ゴミ拾いをしている 人はどこにでもいる。たくさんいる。ごく普通の行為なのだ。だからマスコミは 取り上げないだけである。

 さらに指摘すると、ゴミ拾いをしている人の大半はマスコミに取り上げてもら うためにゴミ拾いをしているのではないから、高良氏のような「マスコミが取り 上げない」という考え方は思いもよらないことだろう。邪心なくゴミ拾いをして いる人はマスコミが取り上げなくてもゴミ拾いをするだろう。ましてや<偉大> かどうかなんて、どうでもいいことではないか。

 そもそも、高良氏らがスタッフとして関わったフェスティバルの後片付けで自 分たちがゴミ拾いをするのは<偉大>でも何でもない。当たり前のことに過ぎな いと私は思う。

 あとがきによると、この“エッセイ”は『沖縄タイムス』に連載されたそう だ。だとしたら、担当デスクが高良氏のことを思うならば「ゴミ拾いごときでい ちいち記事にできませんよ」とでも教えてあげるべきだった。そうすれば高良氏 は恥をかかずに済んだ。

 高良氏はあとがきを<読者の皆様、「琉球史」を仕事とする者の軽薄短小ぶ り、とくとご批評下さい>で締めくくっている。自分で<軽薄短小>を認めてい るからこれ以上指摘するまでもないのかもしれないが、そこを敢えて言うなら ば、ボランティア活動にせよ寄付にせよ慈善行為にせよ、そういうことは自分か ら人に言う必要はない。他人のためにするのではなく、自分のためにやっている のだから。人に言った段階で私は偽善のにおいを感じてしまう。

 ましてや自分の行為を自分で<偉大>と言うべきでは ない。






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