書評 名著『ロックとコザ』と駄本『コザに抱かれて眠りたい』

 コザを舞台にした対照的な本がある。『ロックとコザ』(沖縄市企画部・那覇 出版社・1998年3月31日発行の改訂版)と『コザに抱かれて眠りたい』(高村真 琴・ボーダーインク・2000年7月7日発行)だ。今回はこの2つを取り上げる。 (N)

 『ロックとコザ』は、コザでロックの黄金時代を築いたジョージ紫と宮永英 一、川満勝弘、喜屋武幸雄に丁寧な聞き取りをして、それぞれの生い立ちやベト ナム戦争前後の様子、そして現在までを丹念に描いた。 個人史としてもコザ史としても抜群に面白い。
 この面白さの源は、登場人物が持つ人間としての迫力と 経験の深さ、そしてめぐり合わせた時代にある。だから、登場人物のたくましく 面白い(と本人たちは思っていないだろうが)歩みに引き込まれるのだ。
 私はロックに興味を持っていなかった。しかし、この本を読んだ今はコザに ロックを聴きに行きたいと思うようになっている。

   一方、『コザに抱かれて眠りたい』を端的に言えば、年齢の割には幼稚で自意 識過剰の本土の女性が、観光客気分のまま、観光客の視点からコザの上辺だけを 見て書いた身辺雑記ということになる。筆者(登場人物)がその程度だから、中 身がこの程度なのはやむを得ない。平穏な時代の身辺雑記だから『ロックとコ ザ』とは比較にならないほど中身が薄いのもやむを得ない。
 ただ、細部をざっと見ただけで、 気になる記述がいくつもある。

 その1。<沖縄の台風は雨が真横に降る。これは決して大袈裟ではない、本当 に地面と水平に降るのだ。どうかすると、下からも降る。いや、吹き上げる。だ から、傘なんぞ何の役にも立たない>(185〜186ページ)
 沖縄を好きな本土の人間は、沖縄での事象を美化したり特別 視する傾向がある。この記述はまさしくそれ。大きな台風の時に傘が役に立たな いのは、沖縄だけの話ではない。私の古里・徳島でも、かつて勤務した東北の福 島でも、大きな台風の時には同じような状態になる。台風とはそういうものなの だ。埼玉出身の筆者はもしかして台風を体験したことが ほとんどないのでは?

 その2。<沖縄では、グソー(あの世)こそ人生の本番、現世なんぞ仮の宿、 と考えられている。「家は作らずとも墓は作れ」で、文字通り一生の住まいであ る墓に、手抜きは決して許されない。まさしく、墓こそ命、なのである>(106 ページ)
 いいのか、こんな滅茶苦茶なことを書いて。人生の本番がこの世なのは言うま でもないことで、仮に誰かが正反対の極端なことを言ったとしても、それが沖縄 で普遍性を持っているかどうかを吟味してから書くほうがいい。「沖縄では」と 十把一絡げの断定をした記述は、大きな誤解と時には偏見を招く。
 ついでに言及しておくと、墓は必ずしも「作る」ものではない。亀甲墓(門中 墓)のように門中一族がそこに「入る」墓がある。

 その3。<私もスーパーでオバァにいきなり「クヌ タマナー、チャッサナ ?」(このキャベツ、いくら?)と聞かれ、目を白黒させた覚えがある。ウチ ナーのオバーター(沖縄のオバァチャン達)に、人にモノを尋ねる時は、すみま せんが、とか、ちょっと、とか付け加えてもらえまいか、というのは無理な 相談である>(106ページ)
 「すみませんが」や「ちょっと」という言葉抜きで話しかけられたことは私も ある。でも沖縄に限らない。新幹線の中だったりロンドンだったりする。純朴で 気さくな人にはこうした傾向があるのではないかと私は思う。何を隠そう、私の 母にこういう傾向があるのだ。母は徳島生まれの徳島育ちである。

 その4。<ウチナーンチュがヤマトゥンチュを“査定”する際、ゴーヤーを食 べられるか否かが一つの重要なポイントになる。何しろ、ヤマトから沖縄に嫁に 来た人は、「ゴーヤーを食べられるようになって一人前」と言われているくらい なのである>(128ページ)。
 これもあまりに大げさすぎる。沖縄に限らず、よそから 引っ越してきた人が地元の食べ物を気に入って食べたら、 地元の人はうれしくなるのが人情というものではないか。
 この文章はウチナーンチュ全員がゴーヤーを食べることを前提にしているが、 私の甥っ子(ウチナーンチュ)の中にはゴーヤーが苦手なやつがいる。さらにつ け加えておくと、ゴーヤー(苦瓜)は本土でも栽培されている。<ゴーヤーを食 べられるようになって 一人前>ともったいぶる話ではない。

 以上挙げたようなデタラメな記述のほか、無理やり面白くさせようとして 「のたまう」などというふだん使われない表現や<私は短い足を駆使して><横 町という横町をクンクンとかぎまわり><スワッとばかりに飛びつき>(いずれ も21ページ)などのはしゃいだ表現を連発する。表現にいくら小細工を弄して も、もともと面白くないものは笑えない。そこまでして“笑い”に引っ張ってい きたいのか?

 筆者はこう書く。<私自身、ヤマトからの観光客にワジワジ〜させられること が多々あったのである。彼らの一番の欠点は、なんと言ってもその恐ろしいまで に能天気な思い込みの強さにあった。自分達の価値感、習慣、嗜好は、絶対であ ると頭から信じ込んでいる。いや、信じ込んでいるという事実に気がついてすら いない。「世の中には違うモンだって、あるよな」という想像力、及び柔軟性が 欠如すること甚だしい>(139ページ)
 お前のことじゃないか!(笑い)。筆者が<ワジワジ〜させられる>観光客と 筆者自身が私にはダブって見える。筆者は自分が自家中毒状態にあることに気づ いていないようだ。
 どうでもいいけど、「価値感」ではなく「価値観」が正しい。

 こうした本が出る責任は筆者だけにあるのではない。この本に限ったことでは ないが、沖縄万歳式のずさんな記述や沖縄を特別視した大げさな表現をいつまで 経ってもチェックできない編集者の責任は大きい。編集者たちの“実力”が向上 することを期待したい。






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