うちなぁ歳時記
旧暦7月-旧盆の季節(その2)大切な人を思う季節


 「思い出さないでください。思い出すということは 忘れていたということだから」。高校の卒業文集に友人が記した一文だ。友人の オリジナルの文章だったのか、 当時の流行り歌の一節だったのか定かではないが、 なるほどと思った。でも、現実はどうだろう。 日々の生活に追われ忙しく過ごしていると、 大切なことや大切な人のことを ゆったりした気持ちで思いやることができなかったりする。 気をつけよう。

 そう思っていたら、今年も旧盆の季節がやってきた。 沖縄では旧暦7月13日(今年は8月31日に相当)に ご先祖様をウンケー(お迎え)し、 旧暦7月15日(今年は9月2日に相当)から16日未明にかけて ウークイ(お送り)するのが一般的だ。本土のお盆に 比べると、沖縄のお盆は2〜3週間後に行われる ことになる。子どものころ、全国版のニュースで 「お盆の帰省ラッシュ」を伝えるニュースを見聞きするたび 「なんでねぇ? お盆はまだなのに」と思っていた。 「子どものころ」なんて書いてみたものの、 実は大人になった今でもその類のニュースに違和感がある。 でも、本土のお盆のニュースに接して、 「あぁ、そろそろお中元の準備しなきゃ」と思う あわてんぼう主婦の私にとっては、 このニュース、意外と役に立っていたりする。

 お盆とは、言うまでもなくご先祖様をお迎えして 手厚くもてなし、「これからもムンチュウ(門中=「親族」)を 見守ってください」とウートートー(手を合わせてお祈りを)する 行事である。同時に、亡くなった大切な人を思う大切な時間であると私は思う。 そして、私にも思い出す大切な人々がいる。 いや、厳密に言えば、冒頭に記したあの一文に 照らし合わせてみれば「思い出す」というのは正確ではない。 忘れていたわけじゃない。心の中で生き続けている 大切な人々と私はことあるごとに会話していたりする のだから。

 「大切な人々」の一人に大好きな従姉妹の光子 お姉ちゃんがいる。20代後半、膠原病という難病で亡くなった。 お姉ちゃんが闘病生活を続けている間、 親戚の子と2人で一生懸命に千羽鶴を折った。 小さな折り紙の裏に「みーこネェネェが元気になります ように」と書いては、ひたすら鶴を折り続けた。 ネェネェから最後にもらった年賀状には 「だいぶ良くなっています。今年は退院できそうです」と 前向きな文章が綴られていた。 薬の副作用で髪の毛が抜けおちてしまった時も 「毛糸の帽子が似合ってるでしょう」と、 私に笑ってみせた。ネェネェは元気なころ、 長い黒髪をきれいに三つあみにしていた。 だから一番ショックを受けていたのは本人だったはず。 そんな時でも、私をびっくりさせないように、 心配させないようにと気遣ってくれたのだ。 会っている間はその帽子をかぶったまま。 そして、いつでも笑顔だった。やっと出来上がった 千羽鶴はしばらくネェネェのベッドの横に飾ってもらえた。 まもなくして、折鶴たちはネェネェと共に別の世界へと旅立った。新しい世界で は病気なんかせずに、 自慢の黒髪をきれいにあみこんで、 無理せずニコニコ笑っていてほしいなぁと思った。 ネェネェの黒髪も、笑顔も、 そう思わせるくらい素敵だったのだ。

 考えてみれば、あれから、およそ20年の月日が 流れたことになる。当時、中学生だった私は、 気がつけばあの時のネェネェの年齢をとっくに 追い抜いてしまった。でも、やっぱり、 ネェネェはネェネェだ。きっと、この先私がオバァになっても、 心の中で生き続ける歳をとらないネェネェに、 私は変わらず「みーこネェネェ」と声をかけて いるのだろう。

 そのネェネェのお母さん(私にとっては伯母さん)は 「光子だと思って大事にしてあげてね」と、 みーこネェネェの書棚から何冊か本を分けてくれた。 私が生まれて初めて体験した「形見分け」というものだった。 子どもを失った親の気持ちというものは 想像を絶するものだと思う。子を持つ身となった今、 ネェネェを亡くした時の伯母ちゃんの心情を思うと 何ともいえない気持ちになる。 そして、ネェネェの大切な愛読書を 私にプレゼントしてくれたことにあらためて感謝の 気持ちでいっぱいになる。 その伯母ちゃんにはみーこネェネェ以外に娘が3人いる。 3人ともヤマトゥで就職し、ヤマトゥの人と結婚し、 沖縄を離れて暮らしている。 伯母ちゃんはみーこネェネェの話をするたびに 繰り返し言ったものだ。「みーこはね、いつも言っていたさぁ。 『かあちゃん、みーこは沖縄の人と結婚して、 かあちゃんの一番近くで暮らすからね』って。 だけど、結局、一番遠くにいってしまったさぁ」。 伯母ちゃんは私に会うと、決まってその話をした。 ネェネェが亡くなって間もないころの伯母ちゃんは、 その言葉を言い終わらぬうちにいつも涙声になってしまった。 つられて私も泣いた。

 ネェネェ亡き後、お盆とお正月にはネェネェの仏壇に 手を合わせに行くことを心がけている。現実には、 仕事でどうしても都合がつかなかったり 私自身が沖縄を離れて暮らしていた期間などがあり、 皆勤賞とはいかない。しかし、出来る限りその時期は ネェネェの仏壇に手を合わせ、 ネェネェと過ごした時間をゆったりと思い出す時を 確保したいと思っている。  昨年の旧盆、娘たちを連れて、 みーこネェネェの家を訪れた時のことだ。 伯父ちゃんも伯母ちゃんも、私の娘たちを 自分の孫のようにかわいがってくれ、 やれジュースだのやれお菓子だのと大騒ぎで歓迎してくれた。 私はヒラウコー(黒くて平らな線香)を立て仏壇に手を合わせた。娘たちも私を 真似て小さな手を合わせた。 伯母ちゃんは「ウートートー上手だね」と娘たちをほめながら、 仏壇に向かって、私が娘たちを連れてきたことを報告している。 その後、久しぶりに伯母ちゃんはあのセリフを口にした。 「みーこはね、いつもかあちゃんの一番近くにいるよと 言っていたさぁ」。私は伯母ちゃんがまた ナダグルグルー(涙目でウルウル)するのではないかと 心配になった。ところが、伯母ちゃんはその後、 続けてこう言ったのだ。「本当に一番近くにいるさぁ。 お嫁にもいかなかったから、伯母ちゃんとお墓まで 一緒さぁ」。私の娘たちの頭をなでながらそう話す伯母ちゃんの 笑顔を見て、私は思った。きっと、 私なんかには想像できない悲しみや苦しみを 何度も何度も乗り越えて、伯母ちゃんはこの言葉に、 この笑顔に、たどり着いたに違いない。

 決して忘れてはいない。忘れるなんてできやしない大切な 人たち。旧盆の季節。線香の香りに包まれながら、 亡き人たちと過ごした大切な思い出がこの胸の中に 色あせていないことを確認しよう。そして、また、 明日からの生きる糧にしよう。心をこめてウートートー。 ウートートー。(S)






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