うちなぁ歳時記
7月-太陽の季節に思う「変わったこと」と「変わらないこと」


 梅雨が明けた。からりと晴れわたった空は、どこまでも青い。 容赦なく照りつける太陽の日差しが、長くて暑い沖縄の夏の到来を告げている。 まぶしさにしばし目を閉じ、お気に入りのMr.Childrenの歌を口ずさんだ。 「母親がいつか愚痴るように言った。 夏休みのある小学校時代にかえりたい」。 ミスチルの歌の世界のお母さんならずとも、 これほど強烈な日差しにさらされると、ゆったりと過ごしたくなる というものだ。

 そんなことを考えていたら、 旅好きの母に連れられて日本各地を訪れた夏休みが あった小学校時代を思い出した。 今では海外旅行が珍しくないが、当時の私にとっては 国内旅行も海外旅行も大差はなかった。飛行機に乗ること、 ただそれだけでワクワクしたものだ。 なによりも、ふだん忙しい母とずっと一緒にいられる ことが一番嬉しかったのかもしれない。

 幼い私が海外旅行と大差がないと感じたのは あながち的外れなものではなかったはずだ。 日本本土で乗った観光バスはみんな左側車線を走っていたのだから。 当時の私にとって、それは結構なカルチャーショックだった。 外国に行ったことはないのに、一人前に 「うわぁ、外国にきたみたい」なんて言っていた。

 1968年生まれの私は「4歳で日本人になった」と、 よく冗談を言っている。1972年の沖縄の日本復帰によって、 晴れて(?!)日本人となったからだ。うっすらと したものではあるが、兄たちと共にアメリカドルを握りしめて、 近くのマチヤー(駄菓子屋・店)に買い物に行った記憶がある。 アメリカ世(ゆう=時代)の沖縄の風景が記憶に残る 最後の世代なのだと思う。

 沖縄が日本になって、 生活の中で変わったことはいろいろとある。 ドルから日本円になったこと、日本本土に渡る際、 パスポートがいらなくなったこと。そして、 復帰から6年後の1978年7月30日に交通方法が変更されたこと。 交通方法の変更はその日付から「7・30(ナナ・サンマル)」と呼ばれた。 その日を境に車の右側通行が左側通行となり、 日本本土と同じになったのである。 7・30のキャンペーンは大々的なものだった。 そりゃあそうだ。昨日まで右側を運転していたのに 左側を走ることになるのだから。 たしか照屋林助さんだったと思うが、軽快な音にのせて、 「アメリカ世からヤマトヌ世 ヒルマサ変ワタル クヌウチナァ (これほどまでに珍しくかわってきたものだ この沖縄は)  ヤマトヌ世にナイビタレー(ヤマト世になったのなら) 車ヤ左、 人は右」と歌っていたように思う。

 街のあちこちに「車は左 人は右」のポスターがはられた。 そういえば、石垣島には、今でも、 ある交差点にコンクリートで出来た7・30の標識が残っていて、 人々は「7・30交差点(または7・30十字路)」と呼んでいるらしい。

 そうそう、愛らしいマスコット人形も登場していた。 琉装した女の子が花笠を持っていて、 その花笠のまわりに小さな文字で「くるまは」と記され、 花笠の中央部分に大きな文字で「左」と記されていた。 もう、その「左」の文字の自己主張ぶりは実にお見事、アッパレだった。 父は車のハンドルの近くにそのマスコット人形をぶらさげていた。 私はその人形があまりにかわいらしいので欲しくて欲しくて 仕方がなかった。父に「ちょうだい」とよくねだったものだ。 しかし、どんなにねだっても、父はゆずってくれなかった。 あの時は心の中で「父ちゃんのケチ」とつぶやいていたのだが、 ドライバーとなった今の私は、当時の父の緊張した気持ちを 理解できるような気がする。かわいらしいあの人形は、 見事なまでに自己主張していた「左」の文字が記されたあの人形は、 左側通行に慣れるまでの父ちゃんのお守りだったに違いない。

 それにしても、あの人形は実にかわいらしかった。 どこにいっちゃったのかなぁ。 とうとう手に入れることのできなかった私としては、 まさしく幻の人形となってしまった。沖縄王の読者の皆さん、 誰か持っていませんか? 「譲ってください」なんて 大それたことは言いません。もし、お手元にありましたら、 デジカメ映像を送信していただけるだけで、 私は舞い上がるほど喜んじゃいます。 あの愛らしいナナサンマル娘(と、私が勝手に呼んでいる)を もう一度拝みたいものです。

 沖縄は米軍占領下におかれた27年間と7・30実施までの6年間の計33年間、 右側車線だった。7・30という交通方法変更は 「一国一方式」という国際条約に基づいた ものだという。だから、沖縄が日本になったら、 沖縄だけ右側車線として特別扱いするわけにはいかなくなったのだ。 しかし、全世界的に見ると、実は左側車線の方が少数派なのだとか。 この際、沖縄の交通方法を変更するのではなく、 日本本土が右側車線に変更してもよかったのでは・・・なんて、 少々イジワルなことを考えたりもする。 日本に復帰したことによって、人々の生活が日本本土並みに 変わったことはたくさんあった。しかし、 日本本土並みにならなかったものもあった。 「広大な米軍基地の存在」も、その一つである。 そして、その存在こそ、復帰運動の中で多くの人々が 「変えたい」と切実に願ったものだったはずだ。 2001年7月、故郷のまぶしい日差しに目を閉じた私が 再び目を開ければ、そこには長い長いフェンスが続いている。(S)






©2001, 有限会社沖縄王