うちなぁ歳時記
5月−沖縄が「日本」になった季節。
そして、6月−鎮魂の季節。


 5年ほど前のことである。ヤマトゥンチュの夫との 暮らしをスタートさせるため、 私(編集部員S)は東京・池袋という大都会の空の下、 新居を探しまわっていた。那覇で暮らしていた頃の 2〜3倍はする家賃に、不動産屋さんをまわっては、 ため息をつく日々を送っていた。 そんなある日、私たちの提示する住まいの条件を 満たしてくれる物件を見つけ、部屋を 見に行った。私たちを案内してくれた不動産屋のお姉さんが 大家さんから鍵を受け取った時のことである。 大家さんの玄関先でのやりとりは、表で待っていた私たちの 耳にはっきり届いた。「外国人ではないでしょうね」という 大家さんの大きな声、そして、「もちろんですよ」という お姉さんのにこやかな声。あれほど見たかった部屋 なのに、私の中で気持ちが急速に冷めていくのがわかった。

 池袋はバブル期から多くのアジア系の人々が 暮らすようになっていた。そのことを 快く思っていない日本人が少なくないことを私は知っていた。 「外国人に部屋は貸さない」と公言する 不動産屋さんがあまりに多かったからだ。 そのたびに、チクリチクリと胸の奥が痛んだ。

 私が学生の頃、沖縄の大先輩たちから 戦争体験や日本本土への出稼ぎ体験、海外で の移民体験などの聞き取り調査をおこなっていた。 その中で幾度となく「沖縄への差別」について聞いてきた。 地上戦も復帰運動も知らない私に「話してみたところで わからないだろうけど」という前置きをしながら、 多くの語り部たちは重い口を開いて くれたのだ。「琉球人おことわり」という一言で、 職探しや部屋探しがままならなかったという 日本本土での体験を苦々しく語った人たちと、 池袋で通りすがりに見た「外国人労働者」と 呼ばれる人たちの姿がオーバーラップした。 そして、ふと思った。数十年前なら、 あの不動産屋のお姉さんは「琉球人の私に部屋を見せてくれただろうか」と。

 「日本」になった沖縄が29歳になった 今年の5月15日(=沖縄の日本復帰記念日)、私は、なぜか、 池袋での生活を思い出していた。

 部屋探しの中で違和感を覚えることがもう一つあった。 「夫婦には貸さない部屋」なるものの存在だ。 沖縄でアパート探しの経験があった私には聞いたことのない、 不動産屋側の「条件」だった。 その理由は「赤ちゃんの泣き声は近所迷惑」というものだった。 「ここでは子どもが思いきり泣くことすら許されていないのだろうか」と思うと、 何ともやりきれなかった。

 「あなたが将来、親になったとき、 子どもが泣くからといってワジワジー(イライラ)したらいけないよ」。 自らの辛い戦争体験を語った後、その言葉を付け加えた戦争体験者がいた。 その女性は戦時中、ガマ(壕)の中で乳飲み子を失うという体験を していた。沖縄戦末期の本島南部、軍民雑居のガマの中で、 日本兵は何度も何度も民間人を怒鳴りつけた。 「子どもを泣かせるな。泣きやまないなら、出て行け」。 ガマから一歩外に出れば、そこは砲煙弾雨の世界、 外に出ていくことは死ぬことを意味していた。 幼い子どもたちを抱えている母親たちはふるえあがっていた。 子どもを泣かさぬように、そして、泣きやませるように必死だった。 そのような中で、彼女の腕の中にいた赤ちゃんは 最後まで泣き声をあげることはなかった。泣くことができない ほど衰弱していたのだ。母親である彼女は日本兵の罵声を 聞きながら、娘が泣かずにいることに「安心していた」のだという。 それから、時を待たずして、彼女の腕の中で 小さな生命は息絶えた。ガマの深い闇の中、 彼女は娘の死に顔さえはっきり見届ける ことができなかった。「かあちゃんもすぐに逝くから」と、 暗闇の中で小さな身体を埋葬した。 戦後、彼女は娘を失った重荷をかかえながら生きてきた。 あの時、娘が泣かないことに安心していた自分を 責めるかのように「ひどい母親でした」と 語った彼女の姿を私は忘れることができない。

 池袋での部屋探しの際、彼女の言葉を何度も何度も思い出した。 ようやく見つかった池袋の私たちのアパートでは、 エレベーター近くの部屋から元気な赤ちゃんの泣き 声が時折聞こえてきた。とてもいとしい泣き声だった。 あの時の赤ちゃん、もう大きくなっただろうなぁ。

 時を経て、今では私も二人の娘を持つ身となった。 初めての子育てで、泣きやまない娘たちに閉口したことは 正直言って何度もある。でも、そのたびに「ワジワジーしたらだめだよ」と いう戦争体験者のあの言葉を思い出してきた。あの言葉は、今でも、 子育て真っ最中の私へのエールとなっている。 今、この原稿を書いている傍らで、娘たちの姉妹喧嘩がまた始まったようだ。 二人とも大きな瞳から涙をポロポロ 流している。56年前のこの沖縄で、 小さな生命を育んでいくという当たり前の幸せを 奪われていった多くの母親たちへ思いをはせながら、 娘たちを抱きしめよう。

 もうすぐ6月。「鉄の暴風」と呼ばれた国内唯一の地上戦が もっとも激しかった6月。沖縄にとって 鎮魂の季節が今年もやってくる。






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