これぞシーミールック


みんなでお掃除


三々五々座る


一同ウートートー


シーミー・クヮッチー


みんなで食べる

うちなぁ歳時記
「旧暦3月−シーミー(清明祭)の季節」


 シーミーの季節がやってきた。 ウヤファーフジ(ご先祖様)が 休まれているお墓に、ムンチュウ(門中・親族)がそろって集う。 さる4月15日、母方のシーミーがあり、私も クヮッチー(ごちそう)を持って出かけた。

 初夏を思わせるまぶしい太陽の光が朝からふりそそぐ。 絶好のシーミー日和だ。 日焼け止めクリームをしっかりぬりまくり、 長袖のシャツを着る。 帽子ももちろん忘れない。 「あついのに〜」と抵抗する娘たちにも有無を言わさず 長袖のトレーナーに長ズボンを着せる。 午前11時40分、いざ出発!

   車を走らせ、15分後、実家に到着。 母の姿を見て驚く。「ぜったいに日焼けしないぞ」と いう気合いがこちらに伝わってくるほどの完全防備なのだ。 「これはね、アルケアルケー(=ウォーキング)の格好さ。 あんたも母ちゃんのパーカー借りるね?」と言う。 「いや、そこまでは」と、あとずさりしながら断る私。 しかし、それは誤りだった。長袖とはいえ薄手のシャツを着ていた私は、 あとで虫さされに泣くことになる。 どんなに暑くても厚手の長袖がシーミーの正しいスタイルだったのだ。 人生の先輩・母はやはり偉大だ。 だてにシーミー歴が長いわけではない。 来年からは、私もシーミーの正統派スタイル 「アルケアルケー・ルック」でいくことにしよう。

 母方の門中墓は実家から車で5分ほどの場所にある。 正午過ぎ、お墓に到着。親戚をとりしきる長男おじさんとその家族が すでにいらしている。おじさん、おばさん、いとこたちが次々に やってきて、それぞれがお墓周辺の掃除にとりかかる。 これがまた、けっこうな重労働だ。 おまけに毛虫もた〜くさんいたりする。 おばさんから軍手を借りて、 私も枯れ枝や草を集める。 みんなで汗をふきふき取り組んだ掃除は1時間近くに及んだ。 やはり沖縄のお墓は大きいんだなぁとあらためて思う。 なんてったって、沖縄戦当時、人々の避難場所に なったというほどの大きさだもの。 その広くて頑丈な造りに守られた 命だってたくさんあるのだ。 まさしくご先祖様が見守ってくれたというわけだ。 ありがたいことである。

 とはいえ、沖縄生まれ沖縄育ちである私に言わせれば、 「ヤマトゥのお墓が小さすぎる」というのが正直なところ。 東京出身の我が夫のご先祖様のお墓参りに 初めて行ったとき、 その小ささに私は心底驚いてしまった。 「これじゃあ、みんなでご馳走を食べられないじゃない」と マジで一瞬心配したのだが、ハタと気付く。 シーミーみたいな習慣はヤマトゥにはないんだよね。

 掃除が終わると、大きなビニールシートを敷いて、 靴をぬぎ、三々五々、好きな場所に座る。 いよいよ、ウートートー(手を合わせてお祈りを)する時間だ。 ヒラウコー(平たい線香)をたいて、 ウチカビ(あの世のお金といわれている)を燃やし、 みんなで持ち寄ったごちそうをご先祖様にお供えする。 長男おじさんが「子・孫・ひ孫が 今年もこうやって元気にそろいましたよ。これからも見守っていてください」 とご先祖様に挨拶をする。 一同、ウートートー、ウートートー。

 その後は待ちに待ったウサンデー(お供えしたご馳走を みんなで食べる)。母のきょうだいはなんと10名。 長男嫁として嫁いでいった叔母たちは同じ日に 夫側のシーミーが重なり、 参加できなかったりしている。だが、そんな場合でも 果物やお菓子を前もって準備して届けている。 こうして、みんながそれぞれご先祖様への感謝の気持ちを あらわしているのだ。豚肉の煮付けやあげ豆腐、赤く縁取られた かまぼこ、ゴボウ、ねじりこんにゃく、こんぶ、魚の天ぷら、 あんこ入りの丸くてひらぺったいお餅など、 シーミーの定番メニューが重箱の中におさまっている。 ほかにも、スネー(ニガナの白和え)やポテトサラダがある。 掃除の後でおなかがペコペコということもあり、 おいしくいただく。

 でも、待てよ。高校生の頃の私は、こういうシーミー・クヮッチーを あまりおいしいと思わなかったよなぁ。おまけに、 おかずが残ると、翌日も翌々日も 野菜チャンプルー(野菜いため)の具になったりして、 容赦ないシーミー・クヮッチー攻撃が続いたもんだ。 お弁当のおかずに登場した時には、さすがに「たのむよ〜、かあちゃん」 と思ったもんだ。う〜ん、年齢を重ねると、シーミー・クヮッチーの 味わいの深さを理解できるものなのだろうか? いや、 それって、もしかすると、若い頃には無意識だったり、 時には重くさえ感じられた血縁関係の世界に対して、 子を持つ身となった今、違う見方が出てきたということ なのでは・・・? などと、ケッコウ真面目なことを思いつつ、 油ミソのおにぎりをほおばる。 久しぶりに会うおばさんや従姉妹と談笑するのは、 やっぱり楽しい。

 最近ちょっとスリムになって、 学生時代のジーンズが着られるようになった私は、 隣に座っているおばさんに自慢気に話した。 おばさんは「いいはずよ。どんなして、やせたわけ?」 と、箸を休めることなく尋ねてくる。 隣では従姉妹たちが就職試験の話で盛りあがっている。 私が子どもの頃から無口だったおじさんは、 今年もやっぱり黙ったままだ。

 ババ・バカの私の母は「シーミーの時は暑いから、 孫たちがかわいそうでね。ビーチパラソルを 買って持っていこうと言ったんだけど、これに怒られて」と 私を指差しながら、同じくババ・バカの伯母に 大きな声で話している。当たり前だ。 母ちゃん、私が子どもの頃に「暑い」とあなたにこぼしたら、 あなたは「帽子かぶりなさい」としか言いませんでしたよ、たしか。 それにね、太陽の下、みんなで笑いあいながら楽しく ご馳走を食べるという経験を娘たちにもさせたいじゃないですか。 少しくらい暑くたっていいじゃない。 そんな私の心の中のつぶやきはお墓の中にいる オジイに聞こえたかなぁ。

 私が高校生のころに他界したオジイは物知りで、ダンディで、 ちょっぴりガンコなところもある明治男だったけど、 思いやりにあふれていた。近くに住む私に、お小遣いをこっそりくれたことも あったっけ。シーミーのたびにそんなオジイのことを思い出す。 ねぇ、オジイ、今年も娘たちを連れてきたよ。 ミーマンダッティよー(見守っていてね)。

 かくいう私の娘たちといえば、 最初は私の後ろにかくれたりして、はにかんでいたのだが、 帰る頃には従兄弟の子どもたちとすっかり仲良くなって、はしゃいでいる。 近くに咲いていた野の花をつんでもらったのがよっぽど嬉しかったのか、 「ネーネー(お姉ちゃん)からもらった」と、 帰りの車の中でも大事そうに抱えていた。 家に帰ると、満面の笑顔で娘たちが言った。 「お母さん、また、シーミーピクニックに行こうね」。 うん、来年も一緒に行こうね。

シーミーひとくちメモ
 シーミーは旧暦3月に行う。 その間にできなかったところはナガリシーミー(流れ清明)といって、 旧暦5月に入ってから行う。また、字(あざ)単位でシーミーの日を 決めることがある。これをチュムラシーミーという。 村の人々が同じ日にシーミーを済ませることができれば、 地域単位の行事の計画をたてやすいからだ。 今でも地域社会の結びつきの強いところでは チュムラシーミーが行われている。




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